外櫻田を歩く。
今日は以前歩いた外濠の虎ノ門御門と幸門御門の間にあった新シ橋のあたりから霞ヶ関方面に進みます。海抜は5.2m。江戸時代の古地図にも桝形の城門のない橋として描かれています。文字通り天下太平時代の新しい橋だったのでしょうか。新シ橋からまっすぐ日比谷公園の脇を通り霞ヶ関を抜け皇居方面にのびる道(写真)は現在の都道301号白山祝田田町線です。
外濠と内堀(日比谷濠)に囲まれたエリアは外櫻田とも呼ばれ、江戸時代は大名屋敷街でした。江戸古地図で見ると殆どの屋敷は家紋付きで表されており、これは参勤の際に武家が平常時の住まいとした上屋敷を意味しています。新シ橋を渡った左手は真田信濃守(信濃松代藩)、右手は亀井隠岐守(石見津和野藩)の上屋敷となっています。
直進するとまもなく日比谷公園の西幸門に出ます。こちらのあたりは北條相模守(河内国狭山藩)上屋敷。公園には入らずさらに直進します。公園の脇の歩道には石垣だったと思われる巨石がゴロゴロしています。
霞門の信号を渡ると大岡越前守忠相の屋敷跡の碑があります。時代劇の南町奉行の大岡越前ですね。TBS月曜20時の水戸黄門の枠で流れていました。大岡家はもともと旗本ですが吉宗の時代忠相の功績により西大平藩1万石の大名となり、明治維新まで続き子孫は子爵となっています。名町奉行と言われた大岡忠相の屋敷跡は現在は裁判所ではなく弁護士会館になっています。
日比谷公園に入ります。入って左手は内堀の方まで松平大膳大夫上屋敷。松平となっていますが長州藩毛利家です。中屋敷は東京ミッドタウンにありました。公園内の松本楼近くの池にかかる石橋はもともと芝増上寺の御成門付近にあった橋が移築されているそうです。公園内を内堀(日比谷濠)方面に進みます。
心字池の先に伊達政宗終焉の地の案内板があります。案内板によると慶長六年(1601年)から寛文元年(1661年)まで伊達政宗から三代綱宗の時代までここに伊達家の屋敷があったそうです。幕末には桜田御用屋敷が置かれ将軍逝去後の大奥の隠居所となっていたそうです。平坦な外櫻田もこのあたりは海抜2.6mと低くなっています。
心字池の先には石垣があって公園入り口には日比谷見附跡があります。海抜は1.3m、裏手から階段で石垣の上に登れるようになっています。石垣上は海抜は5mほどですが眺望もよく日比谷濠も一望できます。
おそらく心字池は濠跡で今立っているあたりは松平土佐守(土佐藩山内家)や松平阿波守(阿波国徳島藩蜂須賀家)中屋敷跡でした。今では石垣越しにオープン間近の東京ミッドタウン日比谷がそびえ立ちます。
日比谷公園の噴水付近は松平肥前守上屋敷跡。肥前国佐賀藩主鍋島家です。幕末藩主鍋島斉正(直正) は将軍家斉から松平姓を与えられています。正室も家斉18女です。右手に見える帝国ホテルのあたりは阿部播磨守(陸奥白河藩)上屋敷で突き当たりのJRのガード下あたりには山下御門がありました。海抜は2.2mほど。
現在はガード下に山下門の見附橋だった山下橋の案内板と架橋の名前に名残があります。寛永13年(1636年)肥後熊本藩主細川忠利によって構築されましたが明治七年に撤去されたそうです。江戸城門の中では最小だったとのこと。
JRガード下をくぐり首都高沿いを進みます。道はカーブしています。外濠の跡でしょうか。左側の建物あたりは松平主殿頭(肥前島原藩深溝松平家)上屋敷でした。明治大学発祥の地だそうです。明治14年の出来事です。ちなみに三田の松平主殿頭中屋敷は慶応義塾になっています。面白い偶然ですね。
晴海通りとの交差点が数寄屋橋交差点。現在は首都高とその下の西銀座デパート、地下には丸ノ内線そして晴海通りという大通りが走っていますが江戸時代は数寄屋橋御門があったそうです。海抜は3.8mです。
有楽町マリオンの間を抜けて有楽町駅前に進みます。有楽町イトシア前の広場に南町奉行所跡がありました。大岡越前守上屋敷とはこの距離感、通勤には程よい感じでしょうか。海抜は2.7m。
町奉行とは寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行とも呼ばれた重職で、江戸の警察、司法、行政の一部を担当していました。北町、南町は管轄エリアによるものではなく1ヶ月交代の月番制だったそうです。
因みに北町奉行といえば桜吹雪の「遠山の金さん」ですが彼も忠相同様実在の人物です。ちなみにモデルとなった天保期の旗本遠山左衛門尉景元(金四郎)は北町奉行も南町奉行も歴任しています。江戸町人の評判も良かったようです。
少し離れますが北町奉行所跡は東京駅八重洲北口近くにあります。北と南というほど離れていません。月番制に納得です。
山手線のガードを超えて東京国際フォーラムの脇を通って日比谷濠に戻ります。日比谷濠の海抜は1.3mです。東京国際フォーラムには先程の日比谷御門にあった松平阿波守と松平土佐守の上屋敷がこちらも並んでいました。濠沿いを進み祝田橋(海抜4.9m)を渡ると皇居前広場です。
皇居ランナーのコースを逆行して進むと桜田門を内側から抜ける感じになります。枡形の石垣手前側に渡櫓門、外側の濠に面した側に高麗門があります。海抜は7mあります。内堀のうち桜田門の右手側が桜田濠、左手祝田橋方向の濠が凱旋濠(海抜2.8m)と呼ばれています。
門を出て橋を渡ると桜田門の交差点です。大老井伊直弼が殺害された桜田門外の変はこちらで起きています。そちらの話はまた別の機会に。桜田通り左手にある洋館は明治時代の建築物法務省赤煉瓦棟です。江戸時代の上杉弾正大弼(米沢藩上杉家)の上屋敷跡でした。上杉家はもともと鎌倉第6代将軍宗尊親王(後嵯峨天皇第一皇子)とともに関東に下向した公家の藤原重房が上杉姓を名乗り武家化、足利家との婚姻関係を強め室町時代には関東管領、有力守護大名として越後、上野、武蔵、相模を治め、戦国時代には上杉謙信、関ヶ原後は米沢藩に移転、減封。江戸時代には上杉鷹山などがでています。
桜田通りを直進すると虎ノ門御門です。江戸城に近い大名屋敷街である外櫻田エリアは大岡越前の通勤路でもあり、現在では霞ヶ関の官庁街と緑豊かな日比谷公園、濠の水面や濠跡の残るエリアでした。
六本木を一丁目から
南北線シリーズ。今日は六本木一丁目駅から六本木の街を歩いてみます。3番出口から出ると首都高谷町ジャンクションに出ます。首都高で作られた三角地点の頂点は六本木二丁目の信号です。海抜は12.1m。この辺りはかつては麻布谷町と呼ばれていましたが、谷町の名残りはこの空中にある首都高の合流点の名前だけです。三角点の頂点から右手高台の一丁目には道源寺坂が、左手高台の二丁目には南部坂があってまさに谷窪地です。外苑東通りを底辺とする三角形の土地が六本木三丁目になります。
現在は桜田通りに合流する麻布通りと首都高3号線下を走る六本木通りという2つの大通りが走っていますが江戸時代は道はなく武家屋敷や寺町、御先手組(江戸の治安維持部隊)などの番方の居住地となっていました。江戸古地図を見ながら残された寺院と旧坂を頼りに六本木の街を歩きます。
六本木一丁目は泉ガーデンタワーをはじめ住友不動産による再開発が進んでいます。スペイン大使館へと続くスペイン坂の一本裏の通りには西光寺、道源寺(古地図では通源寺)が残っています。道源寺坂と呼ばれるこの坂を登ります。右手は御先手組の居住地でした。坂下は12.8mですが坂上は25.5mあります。
坂を登って泉通りを左折して次を右折すると三谷坂。江戸時代は右手が阿部駿河守(上総佐貫藩)下屋敷、左手は松平大和守(武蔵国川越藩越前松平家)中屋敷でした。三谷坂の先のスペイン大使館やホテルオークラのある通りまでが六本木一丁目です。坂上の海抜は28mあります。
かつては大久保長門守(相模萩野山中藩)上屋敷だった泉屋博古館と泉ガーデンの庭園を過ぎると御組坂。この坂はかつては道源寺坂に続いていて坂下は御先手組の居住地で坂の名前はそこから。海抜は29.7m。
坂上の通りは直進すると突き当たりは以前歩いた我善坊谷に降りる坂になります。森ビルによる再開発が迫っているエリアです。御組坂を下ります。少し戻ったところに偏奇館跡があります。永井荷風の住居跡です。名前の由来はペンキ塗り二階建て木造洋館だったためだとか。代表作『濹東綺譚』の執筆もこちらだったようです。
偏奇館跡から南下すると角地に山形ホテル跡があります。こちらも永井荷風がよく食事や接客に使用していたホテルのようです。泉通りの突き当たりには日本国憲法草案審議の地がありました。連合軍総司令部と日本政府の間の議論がここで行われていたんですね。
麻布通りを渡って直進します。住所は六本木三丁目になります。右手の住友六本木グランドタワーにはテレビ東京が移転しています。すぐの長い下り坂はなだれ坂です。古地図にもある善學寺、圓林寺が坂の中腹に残っています。坂上の海抜は29.5mで坂下は14mまでさがります。
坂は降らず直進します。突き当たりを左に曲がると外苑東通りにぶつかります。右に降りていくと逆一方通行の寄席坂です。赤坂方面から麻布十番方面に抜ける際にタクシーでよく通ります。正面左手の坂は丹波谷坂。江戸時代は大御番組と呼ばれていたエリアです。大番(大御番)は江戸幕府の常備兵力である番方のひとつで、旗本を組織した直轄軍だそうです。丹波谷坂の次の坂を下ります。表示はありませんが坂下に不動院高野山真言宗があって不動坂と呼ばれています。
不動坂の突き当り、私有地のような細い路地の石段を抜けた先は海抜20mの窪地になっていて共同墓地があります。六本木墓苑という名前でかつての寺町にあった5つの寺院のお墓が再開発によりここに集められているようです。もともとこの場所は江戸古地図によれば祟厳(岸)寺跡になります。墓苑の案内に書かれた残り4寺はかつて六本木町(六本木交差点のあたり)に集まっていたようです。現在正信寺は現存していませんが他3寺院は現存しています。
通りを渡って饂飩坂の途中に教善寺、かつてはなかった六本木通りを渡った六本木七丁目誠志堂ビルの隣に光専寺、その裏手に深廣寺があります。深広寺前の外苑東通し沿いをを乃木坂方面に進むとミッドタウン前に斜めに下っていく道があります。国立新美術館に抜ける龍土町美術館通りです。江戸時代は竜土町という町屋でした。
通りの右手に天祖神社龍土神明宮があります。長徳寺神明社という神仏習合の寺社でした。天照大御神を祀っています。どういうわけか神社名の石碑はテレビ朝日寄贈、裏面に大きくテレビ朝日の文字があります。ちなみにこちらの住所は六本木七ー七ー七。縁起良さそうですね。海抜は28.3m。
星条旗通りにでると国立新美術館と政策研究大学院大学があります。江戸時代は伊達遠江守上屋敷です。こちらには旧日本陸軍駐屯地があった関係で敷地内には今は国立新美術館別館となっている麻布歩兵第三連隊兵舎跡(海抜30m)があります。
フェンスの向うには赤坂プレスセンターと呼ばれる在日米軍基地が広がっています。ヘリポートやガレージ、将校宿泊施設、米軍準機関紙である星条旗新聞があります。都心の一等地が接収されている状態が今も続いています。
入口に法庵寺がある星条旗通りの一本内側の道を進みつきあたりを左に進むと出雲大社東京分祀があります。階段を登った2階に鎮座しています。このあたりは江戸時代は松平石見守(三河国奥殿藩大給松平家)上屋敷です。海抜は30.8m。
六本木通りを渡ると六本木六丁目、六本木ヒルズになります。こちらは以前歩いたことがありますが毛利甲斐守上屋敷です。六本木ヒルズには行かずメトロハットの左脇の道を進みます。海抜は31.4m。江戸古地図では道の両側は御書院番組となっています。書院番とは大番と同じ番方のひとつで徳川将軍家の親衛隊的位置付けだそうです。大番に比べると防御任務を主としていたようです。
道を進むと芋洗坂に合流します。坂を下ると右側に朝日神社があります。海抜19.1m。祭神は倉稲魂大神とともに弁天様の市杵島姫大神が祀られています。湧水が多いエリアだったのでしょうか。
六本木中学を過ぎるとテレビ朝日のあるけやき坂下の交差点です。かつては日が窪町とよばれていたエリアです。左に曲がり鳥居坂下(海抜12.1m)から鳥居坂を登ります。住所は六本木五丁目になっています。
坂左手の京極壱岐守(讃岐国丸亀藩)上屋敷は明治に入ると公爵井上馨邸、久邇宮邸、昭和初期には岩崎小弥太邸となり現在は国際文化会館になっています。外壁の石垣が残って見事です。
鳥居坂の高台は明治大正期は華族や実業家の邸宅地でしたが今でも東洋英和女学院、日本銀行鳥居坂分館などがあり、六本木とは思えない閑静なエリアです。フィリピン大使館横、東洋英和裏の於多福坂(27.5m→13m)も二段構造のいい坂です。
坂上のロアビルのあたりは大久保加賀守(相模国小田原藩)下屋敷でした。海抜は28.5mまであがってきました。六本木交差点に戻って残る六本木四丁目と二丁目を歩きます。まずは六本木四丁目。麻布谷町へと降りていく市三坂の左手の高台(30.1m)です。市三坂は旧町名の麻布市兵衛町と麻布三河台町から来ています。三河台公園裏手には志賀直哉旧宅跡があります。道なりに坂を下ると以前歩いたアメリカ大使館職員宿舎。こちらの敷地が六本木二丁目の大半を占めます。久国神社を過ぎると南部坂。麻布谷町(海抜12m)に戻ってきました。
六本木の街をぐるりと歩いてきました。首都高や住友不動産や森ビルによる再開発ですっかり形は変えつつも古くからの寺社や墓地はひっそりと繁華街の中に残り、坂道は昔の面影を残しています。六本木は夜は気づかない昼の顔も持っているようです。
白金台をいく。
白金はプラチナではなく銀です。あ、港区白金の話です。応永年間(西暦1400年頃)白銀長者と呼ばれた南朝の国司だった柳下上総介が当地を開墾し白金村を開いたそうです。当時の貨幣は銀ですから大金持ちといえば大量の銀を保有していたんでしょうね。
いつのまにか白金はプラチナとなり外苑西通りはプラチナ通りと呼ばれ、白金台の驚安の殿堂ドンキホーテはプラチナカラーになっています。今日はそんな白金の町を歩きます。
南北線白金高輪の駅(海抜10.8m)から桜田通りを五反田方面に進みます。右手の石垣がある高台にはちょっと前までは東京都職員白金住宅が立っていましたが現在は撤去工事中。何ができるのでしょうか。ちなみにこちらは織田安藝守(大和柳本藩)上屋敷でした。
坂上が清正公前の交差点です。海抜は16.1m。右折すると目黒通り、左に登る細い坂道は天神坂で以前歩いた旧東海道の二本榎通りにぶつかります。直進すると五反田駅です。清正公とは加藤清正のことで、「せいしょうこう」と読みます。交差点にある覚林寺に加藤清正の位牌が祀られています。
覚林寺はもともと加藤清正が文禄慶長の役で李氏朝鮮から連れかえった日延(第14代宣祖の孫)の隠居所として開山されています。こちらは江戸初期は肥後熊本藩細川家中屋敷でした。加藤清正の所領であった熊本藩にその後入部したのが細川家ですのでその縁でこちらに祀られているようです。
目黒通りを進みます。登り坂で日吉坂といいます。シェラトン都ホテル東京が左手に見えます。このあたりは江戸時代は寺町だったようですね。都ホテルとは反対側に正源寺は残っていますが江戸古地図に見える寺院はほとんどなくなっています。
スパ白金の先が八芳園、見事な庭園がありますがこちらは松平薩摩守下屋敷(薩摩島津家)でした。ちなみに覚林寺裏手の松平丹波守(信濃松本藩)、九鬼長門守(摂津三田藩)の屋敷跡は今はヘボン式ローマ字で有名なヘボン夫妻が開設した英学塾が起源の明治学院になっています。八芳園側からも桑原坂を下ると明治学院に出ます。
目黒通りの八芳園とは反対側には三光坂に降りていく脇道があります。海抜は27.6m。恵比寿のバス通りに降りて行く坂です。江戸古地図では三鈷坂と書かれています。三鈷とは両側が三又に分かれた密教で使う法具の金剛杵の一種です。坂入り口の左手は江戸時代は京極佐渡守(讃岐丸亀藩)、毛利左京亮(長門長府藩)、分部若狭守(近江国大溝藩)と武家屋敷が続いていました。
毛利家の先を左に曲がると聖心女子学院、江戸時代は松平十郎麿(石見国浜田藩越智松平家)屋敷跡です。私道の為立ち入りはできませんが大木の多い閑静なエリアです。敷地も広々としています。海抜も少し上がって29.6mあります。
三光坂の傾斜が始まるあたりの右手には土塀に囲まれた邸宅があります。鬱蒼とした木々の間から洋館も見えます。土塀沿いに目黒通りに降りて行く坂道も趣があります。表札等はでていませんが元は旧服部ハウスと呼ばれた服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者服部金太郎の邸宅だったそうです。三光坂の坂下は専心寺、西光寺などの寺町です。海抜は13.3m。
三光坂下を右手に進むと白金の鎮守氷川神社があります。海抜10.3mほど。祭神は素戔嗚尊。境内社には稲荷神社と珍しく建武神社があります。南朝の後醍醐天皇、護良親王、楠木正成ら忠臣が祀られています。氷川神社の前は伊達遠江守下屋敷(伊予宇和島藩伊達家)と交代寄合山崎主税助屋敷、裏手の三光坂沿いは上杉弾正少輔(出羽国米沢藩)です。
目黒通りに戻ります。日吉坂上(海抜29.3m)の信号の先、右手が白金台の駅で東京大学医科学研究所があります。江戸時代は松平阿波守(阿波徳島藩蜂須賀家)下屋敷です。伊予の松平と呼ばれた蜂須賀家は二代忠英が家康養女(信康の娘)と婚姻したことにより松平姓を許されていますが幕末の13代松平斉裕は外様大名ながら将軍家斉22男です。
東京大学医科学研究所は明治25年(1892年)ドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために福沢諭吉が私財を投じて作った大日本私立衛生会付属伝染病研究所が前身。その後内務省管轄から文部省管轄に移る際に東京大学に移管、合併されることに所長の北里らが反発し辞任。大正3年(1914年)北里は私費で北里研究所を設立しています。結核のサナトリウムとして設立していた土筆ケ岡養生所をベースにしており先程の聖心女子学院の丘を挟んだすぐ裏手の古川沿いです。
目黒通りの歩道橋を渡った反対側には瑞聖寺があります。江戸時代にはじまった日本では3つめの禅宗である黄檗宗の単立禅宗寺院です。入り口の印象よりも敷地は広く立派な寺院です。黄檗宗といえばインゲン豆を伝えたと言われる隠元隆琦が有名ですが、隠元の弟子木案(瑞聖寺開山)のもとで出家した青木重兼(摂津国麻田藩)が開基となっています。青木重兼は仁和寺の造営奉行を務める中で隠元と知遇を得、その後黄檗宗萬福寺大宝殿の造営奉行も努めています。海抜は28.6m。
プラチナ通りを過ぎると右手には森が見えてきます。白金どんぐり公園の先が国立科学博物館付属自然教育園です。松平讃岐守屋敷跡(讃岐高松藩)です。こちらの松平家は水戸徳川家2代光圀同母兄頼重の流れです。隣の敷地は東京都庭園美術館です。明治時代は陸軍火薬庫だったそうです。
首都高2号線が上を走る上大崎の交差点を直進すると目黒駅です。駅手前に高野山高福院と誕生八幡神社があります。海抜は29mほど。近くに屋敷のあった松平讃岐守が讃岐ゆかりの空海の寺を建立したと説明書きにあります。誕生八幡は高福院別当です。目黒不動への参拝道としてこのあたりには茶店が並び賑わったようですが今日は目黒には抜けずに山手線沿いに白金に戻ります。
並走していた山手線と埼京線が交差し、埼京線がトンネルに入る地点にある踏切が長者丸踏切です。海抜23.3m。このあたりの線路と首都高2号線に囲まれたエリアは長者丸と呼ばれていました。
長者丸の高台は海抜30mほどで広大な敷地の豪邸や高級マンションが続きます。まさしく長者の屋敷街です。自然教育園の中には白金長者の屋敷跡もあるそうです。
白金トンネルに近づいたところに長者丸の記念碑(海抜26.6m)があります。碑文によると呉服商吉田弥一郎(1857-1924)が高級住宅地として開発した邸宅地の碑です。白金長者が開拓した長者丸の地をさらに高級邸宅地として開発したわけですね。
白金トンネル沿いの細道を下って信号を渡ると自然教育園の裏手に出ます。ここから古川方面への支流があったようです。今は海抜14.7mほどの日東坂下遊び場という公園になっていますが、ここから首都高沿いに暗渠らしい名残が残っています。
プラチナ通りを曲がってガソリンスタンドのある信号の坂を左手に登ります。明治坂に続く登り坂です。坂上の路地を入ってしばらくいくと興禅寺。江戸古地図では光禅寺と書かれています。
興禅寺の先には蜀江坂があります。聖心女子学院の裏手のレンガ壁沿いの気持ちのいい下り坂です。坂下は恵比寿バス通りで正面が北里病院になります。坂上の海抜は29.1mですが坂下は12.2mです。
恵比寿三丁目方向に進みます。神応小学校前の信号(海抜9.8m)の細道を左に行くと階段があり雷神山児童遊園(海抜16.5m)があります。江戸古地図ではイナリと書かれていますが雷神山と呼ばれるこの丘に雷(いかづち)神社を作ったとあります。今は氷川神社の稲荷神になっているようです。
右手に行くとおそらく先程の自然教育園からの白金支流と思われる暗渠が続き古川に合流します。こちらは江戸古地図では猩蕎麦と書かれています。明治初期まであった蕎麦屋だそうです。後に福沢諭吉が買い取り別荘地として使用したとか。現在は隣地の廣尾原と書かれたあたりを合わせて慶応義塾幼稚舎になっています。海抜は7mまで下がっています。
白金を歩いてきました。住所はすでに恵比寿。室町時代から長者の住む街は緑と坂の多い閑静な住宅地でした。
穏田川の猫通りをいく
江戸切絵図(地図左下)にもあるように宮益坂の御嶽神社裏手の美竹通り辺りにはかつて江戸城紅葉山から移転した千代田稲荷がありました。関東大震災後、箱根土地(現西武グループ)による商業開発エリアであった道玄坂途中の百軒店(ひゃっけんだな)に移転したそうです。今では海抜31.2mのラブホテル街の真ん中に鎮座しています。
さて宮益坂下(海抜17.3m)から明治通りを原宿方面に進みます。最初の信号が宮下公園(再開発で宮下公園は現在工事中)です。御嶽神社の宮益坂、美竹(御嶽)通りからてっきりその御嶽神社の宮下だと思っていましたが、実は明治時代ここの高台に旧宮家の梨本宮邸があったことによるようです。新井白石の提言もあり世襲親王家であった伏見宮、有栖川宮、桂宮に続いて1710年閑院宮家がつくられました。118代後桃園天皇の時早くも皇統断絶の危機が訪れ閑院宮家から光格天皇が即位します。1779年のことです。今上天皇はその流れです。後桃園天皇崩御の際世襲新王家筆頭の伏見宮貞敬は次期天皇の有力候補にもなっています。その第1王子伏見宮邦家は山階宮、華頂宮、東伏見宮、久邇宮、北白川宮等多くの宮家を作ります。そしてその弟守脩は梨本宮をたて渋谷のこの地に住むようになります。広大な土地で青山通りのあたりから2万坪ほどあったようで屋敷跡はちょうど美竹通りの渋谷区仮庁舎あたりから、旧渋谷小学校、青山パークタワーあたりだったようです。
明治通りの宮下公園の少し先から斜めに入る小道があります。海抜は15.7m。裏原宿と呼ばれるエリアに続く道でキャットストリートと呼ばれています。実はこの道は前回の東京五輪前に埋め立てられた暗渠です。渋谷駅手前で渋谷川は地中に消えこの辺りでは蛇行しながら地下を流れています。かつて渋谷川は宮益坂下にあった宮益橋で支流の宇田川と合流、それより上流は穏田川(おんでんがわ)と呼ばれていました。穏田川沿いを歩いてみます。
いかにも暗渠の風情のある道を進みます。右手の渋谷教育学園渋谷中高校は旗本花房志摩守屋敷跡でした。五反田の花房山との繋がりは不明です。花房家は江戸時代は備中高松(岡山市高松地区)に領地をもった高禄の旗本だったようです。花房山は初代岡山市長花房端連の長子花房義質子爵の別邸があったことから名付けられていますのでどこかで繋がっていそうです。
キャットストリートが二股に分かれる手前の右手裏の高台に穏田神社があります。海抜は20.2m。江戸古地図では第六天と書かれています。もともとは日蓮宗の寺院です。神仏習合では絶大なる魔力を持った欲界の最高位の魔王という設定です。転じて欲望を叶えてくれると考えられたのでしょうか。明治の廃仏毀釈で穏田神社となり祭神も神代七代の第六代 淤母陀琉(オモダル)神・阿夜訶志古泥(アヤカシコネ)神の二体の神になっています。ちなみに第7代がイザナギ、イザナミです。もともと明治通りの先にあった松平日向守(糸魚川藩越前松平家)屋敷隣の熊野権現も明治18年に合祀されているようです。
この先穏田川沿いの地は江戸古地図では田畑、百姓地と記され、『此辺ヲンテン』と明記がされています。いろいろ説はあるようですが家康が本能寺の変の伊賀越えに恩を感じこの辺りを伊賀衆に給地として与えたと言われています。隠れ里的な意味合いや恩田的な意味合いでしょうか。
さて、再び穏田川を進みます。若者で賑わうお洒落ストリートです。本来はこちらが本流だったのでは?と思うような脇道もあります。しばらく行くと穏田橋(海抜17.4m)と書かれた橋の跡や表参道の交差地点には参道橋(19.3m)の跡もあります。
穏田の両側には松平安藝守(安芸広島藩浅野家)、戸田長門守(下野足利藩)、水野石見守、松平美濃守(筑前福岡藩黒田家)の下屋敷がありました。大正時代明治神宮ができたことにより東西に表参道が通ることとなり松平安藝守屋敷跡は分断されすっかり変わっています。ポールスチュアートの石垣も浅野家屋敷の名残りだそうです。
表参道ヒルズの脇の暗渠を進みます。こちら側にも参道橋の跡があります。竹下通りの延長線上の路地を入り明治通りを渡ったところに東郷神社(海抜22m)があります。
江戸時代は松平美濃守(筑前福岡藩黒田家)屋敷でその後明治に入り因幡国鳥取藩池田侯爵家の所有となっています。現在は日露戦争の英雄東郷平八郎元帥海軍大将が祀られています。
穏田川に戻ります。二股に分かれた水車小屋跡があります。村越の水車と呼ばれていたそうです。葛飾北斎の富嶽三十六景の穏田水車でしょうか。海抜は18.5m。
ここを過ぎるとキャットストリートは明治通りと外苑西通りをつなぐ道路とぶつかります。原宿橋と書かれた橋跡があります。この先は住宅地になり雰囲気は一変し、道は蛇行しながら進んで龍厳寺あたりで外苑西通りにぶつかります。この後穏田川は外苑西通り沿いに北上し水源である新宿御苑まで続くそうです。
右折して前述の通りを外苑西通り方面に進みます。道は登り坂です。しばらくいくと左手に青山熊野神社があります。もともと紀州徳川家屋敷の鎮守であったものが移遷されたようです。葵の御紋もついています。神宮前、北青山の総鎮守です。海抜はあがって33.3mです。
熊野神社の手前の脇道を入ると勢揃坂です。國學院高校脇のゆるやかで地味な坂道ですが、渋谷区に残る古道のひとつだそうです。後三年の役に奥州へ向かう八幡太郎義家がここで軍勢を揃えたとか。なんだかすごい話ですね。坂下(海抜24.9m)は霞ヶ丘アパートがありましたが東京五輪のために更地となっています。前回のオリンピックを前に作られた団地が今回のオリンピックで消えていくわけですね。
坂を下って外苑西通りを進むと仙壽院の交差点です。海抜は22.7m。すでにメイン競技場の建設が進んでいます。仙壽院は徳川家康側室お萬の方ゆかりの寺です。お萬は紀州徳川家頼宣と水戸徳川家初代頼房の母になります。かつては穏田川を眺める高台で桜の名所でもあったそうですが廃仏毀釈や戦災で衰退、東京五輪に際しては墓苑の下を千駄ヶ谷トンネルが通るなどしています。
仙壽院を過ぎて榎坂を上ると瑞円寺(海抜32m)、裏手には二股に分かれ間に祠のあるお万榎があったという榎稲荷があります。女陰に例えられ性器崇拝、性的信仰の対象となり内藤新宿あたりの遊女が拝みに来たと言われています。榎自体は戦災で焼失しています。
榎稲荷の鳥居のある道を進むと鳩森八幡神社(海抜32m)があります。神亀年間に創建されたという由緒ある神社で瑞円寺が別当です。境内には千駄ヶ谷の富士塚と呼ばれる富士見塚があります。また八幡神社裏手に将棋会館がある関係で境内には将棋堂もあります。
鳩森八幡神社前の五叉路を千駄ヶ谷駅の方に向かうと右手に東京体育館が見えてきます。幕末こちらは徳川紀州家下屋敷で明治に入って徳川宗家家達が静岡(駿府)知事解任後、天璋院とも住んでいた徳川屋敷があったそうです。海抜は32m程です。
渋谷から穏田川をたどりながら千駄ヶ谷まで歩いてきました。江戸の外れの川筋は今ではファッションストリートとなり、上流の千駄ヶ谷周辺は二度の東京五輪でまた街の形を変えようとしているわけですね。
東麻布界隈を歩く
西麻布にくらべるとあまり耳慣れないですが麻布十番の東側には東麻布もあります。麻布台の高台の稜線である外苑東通りと低地の古川に挟まれたエリアです。東側を国道1号が走り、西側を五反田方面からの桜田通り(白金高輪で分岐)の直線上にあたる麻布通りが走っています。麻布台の高台からは南北にいくつかの坂が走っています。登り降りになりそうですが今回は東麻布界隈を歩いてみます。
最寄駅の大江戸線麻布十番駅から歩きます。出口すぐに麻布十番稲荷があります。海抜は9m。江戸古地図で見ると現在よりもう少し東側の長坂町というところに朱色に塗られた『イナリ』の表記があります。調べてみると昭和25年に戦後復興土地区画整理のため旧坂下町の末廣神社と旧長坂町の竹長稲荷神社が当地に遷座し、その後合社されたとあります。おそらくこの竹長稲荷神社が古地図のイナリでしょう。末廣神社の方は現在の麻布十番商店街の真ん中あたりに坂下町という表記があり「末廣イナリ」とあります。こちらのようです。
赤羽橋方面に進みます。まもなく先程の長坂への入り口が左手にでてきます。海抜8.2m。ジョナサンのあるカーブを描いた通りです。首都高沿いの今の麻布通りではなく江戸時代はここが飯倉方面への坂の入り口だったようです。今では永坂の表示になっています。坂は飯倉片町へ向かう麻布通り途中で本来の永坂に分かれます。分岐の海抜は23.4m、坂上の表記のあたりは29mです。
新一の橋交差点には麻布永坂更科本店という昭和25年創業の蕎麦屋がありますが、更科蕎麦の源流ともいえる麻布十番の更科そばといえば更科堀井です。麻布十番商店街にある更科堀井は上総飯野藩保科家(保科家旧領は信濃高遠藩)江戸屋敷近くだったこの麻布の町に1789年に創業した信州更科蕎麦所布屋太兵衛が起源。布屋太兵衛の本名は保科家の御用布屋であった堀井清右衛門で更科堀井の本流です。布屋太兵衛は関東大震災や昭和恐慌等で廃業となり後に「永坂更科」の商標を取得したのが麻布永坂更科本店です。若干ややこしいですね。ちなみに永坂更科布屋太兵衛も十番商店街にあります。かなりややこしいですね。
さて、江戸古地図をみるとプレゴの先あたりから永坂更科も含め新一の橋を越えた古川沿いに馬場の表記があります。馬場といえば高田馬場が思い浮かびますが溜池や御成門にもあったようにここにも十番馬場というのがあったそうです。海抜4.6mほどです。
馬場の先には京極佐渡守(讃岐国丸亀藩)中屋敷がありました。海抜4.3m。外国人向けスーパー日進ワールドデリカテッセンの前あたりです。今は虎ノ門にある金比羅宮はかつてはこちらの中屋敷にあったようです。京極家は室町幕府の四職として侍所別当などについた武家ですが織豊時代、江戸時代も生き抜いて明治になって子爵となっています。屋敷跡手前を左に入ってみます。
つきあたりは狸穴公園(海抜7.6m)。狸穴稲荷大明神という神社も園内にあります。こちらの狸はタヌキではなくマミと読みます。猯(まみ)はタヌキともアナグマともムジナとも混同されているそうです。イノシシとも読みます。坂名は狸と猯の字が混同されているわけですがここの穴の動物はなんだったんでしょうか。
公園の先を進むと鼠坂、植木坂、鼬坂と急坂との出会いが続きます。鼠坂の左手は江戸時代は松平右近将監(石見国浜田藩越智松平家)下屋敷跡です。徳川慶喜の異母弟松平十郎麿(武聰)の下屋敷です。このあたりの坂の名前は諸説あるようです。鼠と鼬の漢字が混同されているとか、鼬坂入り口に江戸時代植木屋ツジドウがあったから植木坂はこちらであるとか、結局全て同じ坂だという説もあるようですね。
植木坂は現在は外苑東通りから鼬坂を降りてきた地点から麻布通り方面に登っていく坂になっています。坂上の越智松平家屋敷跡にはブリジストンの石橋財団があります。海抜は27m。麻布永坂町の高台です。
坂の表記はないですが鼬坂といわれる外苑東通りにでる坂道の途中に島崎藤村旧宅跡の碑がありました。「破壊」「夜明け前」が代表作ですが私小説ではないようですね。島崎藤村本人は産まれこそ岐阜県ですが、アルマーニで今話題の泰明小学校出身で明治学院で学んでいます。
外苑東通りを飯倉の方に進むとロシア大使館手前に急坂があります。こちらが狸穴坂です。坂の入口で海抜は26.7m。左側はロシア大使館とアメリカンクラブの敷地になっています。江戸時代は秋田安房守(陸奥国三春藩)中屋敷、戸澤上総介(出羽国新庄藩)上屋敷でした。ちなみに東麻布高台のエリアは住居表示未実施地区で麻布狸穴町、麻布永坂町という古い町名が残っています。逆に坂下の東麻布は区画整理もされた分、少し味気ない街並みになっています。
坂を下って左手にしばらくいくと麻布いーすとストリートという商店街が出てきます。区画整理の前からある道で国道1号から中の橋に斜めに繋がります。海抜は商店街入り口で4.1mです。この通りと国道1号と古川に挟まれた三角形の土地は江戸時代には森元町と呼ばれる町屋がありました。善長寺、順了寺、円明院、心光院などの寺院と大縄地と呼ばれる下級武士の屋敷地があったようです。
江戸古地図を見ると順了寺裏に外国人旅宿とかかれた敷地があります。少し古い古地図だと青木美濃守屋敷になっているところです。現在の地図に重ねると飯倉公園、飯倉保育園のあたりです。公園には文字色はだいぶ薄れてますが解説板がありました。海抜は5.1m。
安政6年(1859年)前年の日米修好通称条約に始まりオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を締結し各国使節の宿舎が必要になりこの地に「外国人旅宿」が作られたようです。同時期アメリカ公使ハリスは下田から麻布十番の善福寺に移っています。以前歩いた高輪東禅寺や御殿山の土蔵相模のようなイギリス公使襲撃事件などの攘夷運動もこの後頻発します。
道路を南下すると赤羽橋です。増上寺の赤羽門と火除け地があり高札も立っていたようです。こちらにあった順了寺、円明院などの寺社は殆どなくなっていますが唯一心光院は戦後の区画整理で移転し東京タワー下に残っています。赤羽橋交差点の海抜は4.5mです。
国道1号を登ります。飯倉へと続く急坂ですが坂名の表記は何故かありません。坂の名前は土器坂、土器は「かわらけ」と読むそうです。
野田岩本店の前の歩道橋を渡ると瑠璃光寺と元は赤羽橋にあった心光院(海抜13.4m)があります。心光院表門はそのまま移築されているようです。背景の東京タワーが不思議と調和しています。国道1号を渡りましたがこちらも東麻布です。
戻って飯倉方面へ登る左側に飯倉熊野神社があります。かつては隣接している旧飯倉小学校の校地の一部も境内地だったようですが今は小規模な神社になっています。海抜は社殿で13.6m。
飯倉の交差点を左折して榎坂という緩やかな登り坂をのぼってすぐのロシア大使館手前の道を入ります。一乗寺、真浄寺と日蓮宗の寺院が続き右手は会員制アメリカンクラブとなります。
突き当たりのアフガニスタン大使館右手の空き地に日本経緯度原点があります。明治7年こちらに暦作成のため海軍の観象台が作られ、明治21年東京天文台となったそうです。南面はひらけた丘の上にあって海抜は26mありますが、今は都心の明かりで天体の観測などできそうにないですね。ちなみにこの辺りは尾張徳川家お抱え屋敷でした。
外苑東通りを進むと飯倉片町の交差点です。左折して坂を下ると新一の橋の交差点、直進すると六本木交差点です。(写真は飯倉方面を振り返ったところです)
東麻布の町を歩いてきました。住居表示への反対運動もあり東麻布とはならなかった麻布永坂町、麻布狸穴町、麻布台町といった古い町も残り、一見地味ながらも外国人旅宿跡や天文台跡なども残る坂の町でした。
渋谷区東の牧場を探す
渋谷駅を出て明治通りを恵比寿方面に進みます。並木橋の交差点(海抜14m)を左折して坂を登ると金王神社前の信号があります。金王八幡宮は旧渋谷城本丸跡にある神社です。海抜は26.2m。渋谷氏の祖、渋谷重家の嫡男渋谷金王丸が名前の由来です。隣接する東福寺は別当寺で渋谷区内最古刹とのこと。
金王八幡の境内には渋谷城の石とされる石が残されています。渋谷城は源義朝とかの時代のようなので平安末期ですね。
さて、今回は明治通りと六本木通りに挟まれた渋谷区東あたりを散策します。渋谷の東側という意味でしょうか。かつては常盤松町と呼ばれたエリアで薩摩藩島津家下屋敷がありました。篤姫はこちらから将軍家に嫁いでいます。島津家屋敷はその後一部敷地を縮小し、現在は今上天皇の弟宮の常陸宮邸となっています。
こちらのエリア一帯は明治時代は皇室の御料地で、御料乳牛場として皇室に乳製品が献上されていたそうです。驚きです。渋谷に牧場があったんですね。
江戸古地図を見ると幕末の常盤松エリアは武家屋敷といつくかの寺社はあるものの百姓地や畑、田の表示も多く、他の切り絵地図エリアに比べて江戸の外れ感はあります。現在は常陸宮邸を始め、青山学院や実践女子、國學院大学等のキャンパスや公立の小中高等学校があり緑多い静かな文教エリアではありますが、牧場の名残りは当然全くありません。
まずは先程の金王神社前からひとつ六本木通り寄りの信号を曲がって渋谷区渋谷図書館の方に進みます。左手は実践女子学園の敷地です。実践女子大学は1903年に飯田橋から移転しています。 緩やかに登った後下り坂になります。右手は江戸時代は松平美濃守屋敷(筑前福岡藩黒田家)、図書館の前が常磐松小学校で旧町名が残っています。
渋谷図書館入口の信号を渡ると渋谷氷川神社があります。江戸古地図には氷川宮宝泉寺とあり今も隣接する宝泉寺が別当寺だったようです。正面に鳥居が見えますが表参道は右側に回った側にあります。一の鳥居は海抜16.4mですが社殿は29.3mです。
氷川神社の隣地が國學院大学。丘陵地全体にキャンパスが広がっています。海抜は30mほどの高台です。明治時代に国家神道が成立し大衆へ向けた皇道の教科活動を行う機関として開講された皇学講究所が母体です。現在神社本庁の神職の資格が取れるのは國學院大学と皇學館大学(三重県伊勢市)のみだそうです。1923年にこちらも実践女子同様飯田橋から移転してきています。
吸江寺を過ぎると渋谷区郷土博物館、郷土博物館前には珍しい白松(はくしょう)いう中国原産の植物(幹が白い松のような植物)が生えています。インスタ映えしそうな不思議な樹木です。
その先左手が薩摩藩島津家下屋敷、現在の常陸宮邸ですが手前に常盤松の碑があります。坂を下って常陸宮邸を抜けたところが東四丁目の交差点。6叉路になっています。海抜は22m。
6叉路左手の坂上の六本木通りの先青山学院敷地内から渋谷川に注ぐ流れがあったそうです。いもり川と呼ばれた流れです。今は暗渠になっているその流れを辿ってみます。東京女学館の方に下ります。突き当たりに如何にも暗渠らしい「いもり川階段」と書かれた段差のある細い路地があります。階段下の海抜は20m。
住宅街を縫うように暗渠が続いています。江戸古地図では田、畑と記され『此辺羽根沢村』と書かれています。確かこのあたりに羽澤ガーデンというビアガーデンがあって、社会人に成り立ての頃来た記憶があります。鬱蒼とした森に囲まれた日本庭園の記憶です。今は跡地は三菱地所に売却され低層の高級マンションになっています。一般開放はされていませんが一部羽澤緑地として渋谷区が緑の保全につとめているようです。海抜17.6m。
いもり川の暗渠脇には高台へ続く階段があったり、人ひとりが通れるくらいの路地があったり、まさしく暗渠のある風景が堪能できます。高低差フェチや暗渠好きにはたまりませんね。海抜も14mほどになってきました。しばらく進むと広尾祥雲寺の寺域だったという臨川小学校の東側に出ます。
そのまま直進して明治通りを渡ると、暗渠の延長線上に細長い広尾一丁目児童遊園があります。ここがいもり川の終点のようです。公園を横切ると階段があり、下ると渋谷川が流れています。正面に見えるフェンスが渋谷川のフェンスです。このあたりまでくると海抜8mです。
臨川小学校を直進せずに右手に曲がると東北寺があります。出羽米澤藩上杉家、明治になってからは日向国佐土原藩島津家の菩提寺になっています。
東北寺の坂を上がった恵比寿プライムスクエア一帯は法雲寺、福昌寺、室泉寺等の寺院のある寺町です。
渋谷橋に出て渋谷川沿いの明治通りを渋谷方面に戻ります。渋谷東商店会です。ひとつ道路を入ると下町っぽい町並みが残っています。銭湯もありました。まもなく渋谷駅です。
最後に乳牛場の話を再び。1871年黒田清隆は開拓使次官として北海道の開拓を指揮する中で東京官園という農業実験場を作りました。北海道開拓のための種畜や種苗の研究所であったようで、今の青山学院初等部あたりに第一官園、青山こどもの城あたりに第ニ官園、そして広尾日赤医療センターあたりに第三官園があったようです。その後官園は廃止され1882年常盤松町エリアは御料地となり、1898年に北海道開拓に携わった榎本武揚が設立した東京農業大学(私立東京農学校)がこれまた飯田橋から御料地内に移転。1900年から25年間ほど常盤松には牧場(御料乳牛場)があったようです。関東大震災により旧薩摩藩島津家下屋敷あたりの土地が東伏見宮邸となり、その少し前國學院大学がこちらも飯田橋から移転。付近の住宅環境も変わる中、御料乳牛場は廃止されたようです。
戦後唯一名残を残していた東京農業大学も世田谷キャンパスに移転し、跡地は青山学院が購入し青山女子短大や中等部になっています。飯田橋駅近くに東京農業大学発祥の地の碑があるそうです。
西麻布広尾を歩く
西麻布は麻布十番の西側のエリアで六本木通りと外苑西通りが交差しています。江戸時代には今は外苑西通り沿いの地下に暗渠となっている根津美術館や梅窓院あたりを水源とする笄川(こうがいがわ)が南北に流れ、天現寺あたりで渋谷川(古川)に合流していたそうです。今でも笄坂、笄公園や笄小学校などの地名に残っています。今回は笄川をたどりながら西麻布、広尾の街を歩きます。
海抜16.5mの西麻布の交差点から六本木通りを渋谷側に登る坂が笄坂です。すぐ左手の路地を入った笄川暗渠の通りを進みます。この道が川の流れだったそうです。
最初の交差点の右側の坂が牛坂です。坂上は30mまで高度が上がります。ここに笄橋が架かっていたようです。海抜は14.5m。
直進します。堀田坂と笄川暗渠と思われる道の二股に出ます。海抜は13m。坂の上には堀田備中守(下総佐倉藩)下屋敷がありました。今は緑豊かな広大な広尾ガーデンヒルズや日赤病院の敷地になっています。
二股の脇を左手に曲がり外苑西通りに出て笄川小学校西の信号を渡ったところの登り坂が鉄砲坂、その先も登り坂で北条坂です。かつては北條家屋敷の坂下には御先手組の居住地がありました。御先手組は江戸幕府の治安維持部隊であり鉄砲坂の由来はそこから。
笄川に戻ります。広尾学園裏の堀田家屋敷跡の崖下を進みます。正面は聖心女子大学の敷地です。突き当たりの斜面右手に北門があります。聖心女子大学は旧久邇宮邸で昭和天皇の香淳皇后が幼少期ここで過ごしています。ちなみに今上天皇の美智子皇后は聖心女子大学出身です。江戸時代はこちらも下総国佐倉藩主堀田家下屋敷です。まさに広大な敷地です。
暗渠に沿って外苑西通りに出ると日比谷線の広尾駅です。(写真は外苑西通りから笄川の流れを振り返っています)この辺りの海抜は11mほど。このあと笄川は外苑西通りを蛇行しながら流れていました。広尾橋の信号を左に行くと有栖川公園、右手に行くと広尾商店街です。
天現寺に向かって外苑西通りの左側にショッピングモールの広尾ガーデン、広尾コンプレックスビルが続きます。笄川はこの辺りで蛇行しながら今の外苑西通りを渡っています。港区と渋谷区は笄川で区界が決められており隣同志でありながら広尾ガーデンは港区、広尾コンプレックスビルは渋谷区になっています。その先の天現寺は再び港区です。
天現寺は臨済宗大徳寺派の寺院で多聞山天現寺。多聞天すなわち毘沙門天を祀ります。海抜は9.9m。慶応幼稚舎の手前で暗渠を進んできた笄川は天現寺橋のあたりで渋谷川に合流します。海抜は2.9mほど。やっと姿を見ることができました。ここから先は古川になります。ちなみに天現寺の先四の橋近くにあるのが光林寺。こちらは臨済宗妙心寺派の禅寺です。
広尾駅に戻ります。天現寺橋の歩道橋を渡った都営住宅あたりは保科弾正忠の屋敷跡です。海抜8.6m。明治屋が入った広尾プラザは堀田摂津守下屋敷(下野佐野藩)。広尾商店街入り口の向かい側は有馬兵庫頭(下野吹上藩)屋敷です。広尾商店街を進みます。
突き当たりの祥雲寺手前の細道を右に入って行くと聖心女子大学の南門前(旧久邇宮邸の通用門)、祥雲寺突き当たりを左に行くと広尾五丁目の交差点ですぐ先を渋谷川が東西に流れます。
今日は初めてまっすぐ進んで祥雲寺山門をくぐります。山門の海抜は12.4m。驚いたことにこの細い山門は車での通り抜けも可能で山門内の寺社域に複数の道路と寺院が建っています。敷地も広くかつては隣地の渋谷区立臨川小学校も祥雲寺の寺域だったそうです。
正式名称は臨済宗大徳寺派の瑞泉山祥雲寺といい筑前福岡藩黒田家菩提寺です。当初は赤坂溜池の黒田家中屋敷内にあったそうです。初代福岡藩主黒田長政(黒田官兵衛の嫡男)の墓があります。黒田家以外にも多くの大名墓地群があり林立した巨大な墓標に圧倒されます。墓苑の右奥は高台で高度も18.8mほどあります。
明治通りに出ます。渋谷川はこの通りと並行します。祥雲寺の敷地と臨川小学校の間の道を進みます。道がクランクしていますが突き当たりは戸沢上総介下屋敷です。出羽国新庄藩で幕末期は奥羽越列藩同盟に参加しながら途中戦線離脱、逆に庄内藩に占領されたりもしてます。
道なりに北上します。通称日赤通りは高級住宅街です。道の左手には時折急坂がでてきます。チェコ共和国大使館を過ぎてしばらく行くと右手に聖心女子大学の正門。お寺の山門のようです。道は日赤医療センター、東京女学館と続きます。
海抜30.4mの堀田坂へのT字路近くは商店街になりますが江戸時代は両側山口筑前守(常陸国牛久藩)屋敷、その先右手は仙石能登守、織田淡路守と武家屋敷が続いてました。六本木ヒルズに移る前、JWAVEはこちらにありました。
左手と六本木通りを越えた先骨董通りのあたりまでは高木主水正(河内丹南藩)下屋敷でした。高木町、主水町などと呼ばれていたそうですが今は字は違いますが首都高入り口の高樹町として残っています。町の由来名の看板がありました。
西麻布交差点への坂道が歩き始めの笄坂です。ぐるりと西麻布、広尾を歩いてきました。笄川と渋谷川で作られた低地と堀田備前守の広大な屋敷地の高台の緑の街でした。