東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

紀尾井町を歩く

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内務卿大久保利通の哀悼碑がホテルニューオータニの向かい紀尾井町清水谷公園にあります。かなり大きな碑です。1878年明治11年)『紀尾井坂の変』で大久保利通は暗殺されます。紀尾井坂は弁慶橋から向かって清水谷を左折した登り坂。ただ事変が起きたのは紀尾井坂手前の清水谷だったようです。写真の清水谷の標識あたりの海抜が13m、紀尾井坂の頂上が31m

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大久保利通を乗せた馬車の車夫が助けを求めたのが清水谷から坂を登った先の北白川宮(海抜30m)。今も清水谷公園の脇に残る石段を駆け登ったのでしょうか。戊辰戦争時に彰義隊に担がれた東武皇帝北白川宮能久親王の邸宅は、現在ではその後に建てられた洋館の煉瓦の基礎遺構のみが残ります。ちなみにこのあたりは戦後西武グループに売却され旧赤坂プリンスの敷地となりましたが、江戸時代は紀州徳川家上屋敷で今も弁慶橋のたもとに石碑がたっています。

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清水谷をまっすぐ進むとまた坂道となって左側が上智大学の敷地になります。まっすぐ進まず左に曲がると紀尾井坂。紀尾井坂の左側はホテルニューオータニの敷地でここは江戸時代は近江彦根藩井伊家中屋敷でした。石碑があります。また坂の右側は紀尾井町ホールと上智大学の敷地になりますがここは尾張徳川家中屋敷でした。

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喰違見附をでて堀を渡ると赤坂御所。大久保利通はこちらに向かっていました。ここではその4年前の1874年(明治7年)に右大臣岩倉具視も襲われています。岩倉具視は傷を負いながらも四ツ谷濠(真田濠)に落ちて命が助かっています。征韓論が破れ不平が溜まった士族たちの犯行でした。四ツ谷濠は現在は埋め立てられ上智大学真田堀グラウンドになっています。

紀州徳川家尾州徳川家、そして彦根藩井伊家の屋敷跡だったため頭文字をとって現在このエリアは紀尾井町と呼ばれています。江戸から明治への幕末の歴史の流れを感じるエリアです。