東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

三田高輪の台地を探る

甲州街道四谷大木戸からはじまって四谷の谷探しをはじめましたが、東海道にも高輪大木戸という所謂関所があったそうで、今回はそこから高低差の旅に出てみようと思います。

f:id:tohrusampo:20180124152848j:image

高輪大木戸跡は国道15号沿い田町と品川駅の間、都営浅草線泉岳寺駅近くの歩道にあります。若干車道に出っ張った形に石垣の土塁跡があり歩道がぐるりと迂回しています。江戸時代には道の両側にこうした石垣があり木製の扉が開閉されていたらしく、現在JR山手線の新駅を建設中の海側の広大な敷地はもともと海浜だったようです。大木戸の海抜は3.7m

f:id:tohrusampo:20180124152812j:plain

なお高輪大木戸より100年ほど前の江戸初期には少し田町方面に戻った今の札の辻あたりに芝口門という門があり、そこに高札が建てられ江戸の玄関になっていたそうです。札の辻の由来も高札場だったからのようです。江戸初期はここが江戸の南端だったんですね。札の辻の三角点の高度が4.3m

f:id:tohrusampo:20180124153141j:image

札の辻から品川方面を臨むと右側が丘陵地になっていることがわかります。右手の芝桜が綺麗な赤い住友不動産のビルの裏手はかなり険しい崖で住民のためにエレベータが設置されています。(写真左の塔)ビルの入り口の海抜が4mに対して崖上は28mもあります。崖上の右手の坂道は聖坂高輪台方面の突き当たりに高野山東京別院があるからでしょうか。道の両脇に寺院が続きます。浄土宗系の寺町のようです。

f:id:tohrusampo:20180124153208j:image

f:id:tohrusampo:20180123110118j:plain

歌川広重「江戸名所百景」月乃岬

しばらく品川方面に進むと左手に趣のある土塀に囲まれた亀塚公園が出てきます。伏見宮から分かれた旧宮家華頂宮邸宅跡です。このあたりの高台は眺望もよく「月の岬」と呼ばれていたそうです。ここからも東海道沿いの御田八幡に降りていける急階段があります。亀塚公園に続いて三田台公園があります。ここも含めて華頂宮邸宅だったようです。屋敷内にあったと思われる井戸が残っています。なお園内には貝塚面が保存されています。近くの伊皿子貝塚(ちょうど崖下のNTTデータビルあたり)から出土した貝塚面です。(2018年1月時点は工事中)

f:id:tohrusampo:20180124153241j:imagef:id:tohrusampo:20180124153249j:image

伊皿子坂東海道方面に下る途中にあるのが忠臣蔵で有名な泉岳寺。海抜は10.6m。曹洞宗の寺院で江戸三箇寺の一つですが浅野長矩赤穂浪士四十七士の墓所があることで有名です。山鹿流陣太鼓がシンボルの土産物屋さんがいい感じを出しています。山鹿素行は江戸時代の儒学者朱子学を批判したこと赤穂藩にお預けとなっていましたが、本来の武士の在り方「士道」を追求していました。討ち入りもそうした思想、道徳観念が影響しているようですね。

f:id:tohrusampo:20180124153928j:imagef:id:tohrusampo:20180124153935j:image

東海道品川宿方面に進みます。なぜか聖徳太子まで祀られている高輪神社を過ぎると高輪二丁目のT字路にでます。高輪海岸の石積み跡が残っています。ここから東側も海浜だった証です。現在の海抜は4m

f:id:tohrusampo:20180124154211j:image

高輪台方面に伸びる坂が桂坂、江戸時代の桂坂は高輪二丁目の信号から直進せず今も残る泉岳寺よりの小道から入ってクランクしていたようですね。途中の高野山東京別院の手前からも昔の桂坂と思える脇道があります。桂坂を登りきると高輪のシンボルとも言える高輪消防署二本榎出張所です。灯台のような構造の鉄筋コンクリート3階建ての近代建築です。高度は28mあるので見晴らしは良かったのでしょう。直進すると明治学院前の桜田通りに出ますが、右折して伊皿子坂の方に戻ります。この道は二本榎と呼ばれ東海道と並行してつづいていました。こちらが旧東海道鎌倉街道下道)なのではとも言われています。

 f:id:tohrusampo:20180124160710j:imagef:id:tohrusampo:20180124160725j:image

伊皿子坂交差点の手前の左側は江戸時代の古地図によると肥後熊本藩細川越中守屋敷跡、現在は高輪アパートと区立高松中学そして高輪皇族邸宅になっています。討ち入り後大石蔵之助ら17名は沙汰が出るまでここ熊本藩細川綱利下屋敷にお預けとなりました。綱利は助命嘆願や愛宕神社への祈願等をしていますが翌年切腹の沙汰となり屋敷内の庭で介錯しています。家臣たちにもその庭を残すように命じたと言われていますが現在も高輪アパート敷地裏手にひっそりと残されています。

f:id:tohrusampo:20180124154316j:imagef:id:tohrusampo:20180124154321j:image

同じ屋敷跡に建っているのが高輪皇族邸昭和天皇も皇太子時代住んでいたそうで、その後弟の高松宮夫妻が住まわれていましたが今は無人。近くの区立中学が高松中学なのはその縁のようです。なお今上天皇が退位された後はこちらに住まわれると言われています。隣の松島屋の豆大福は昭和天皇が贔屓していたことで有名です。伊皿子坂(海抜23m)を左に曲がると魚籃寺のある魚籃坂です。

f:id:tohrusampo:20180124154402j:imagef:id:tohrusampo:20180124154412j:image

魚藍坂下(海抜8m)が国道1号との交差点になり右折してまっすぐ進むと慶應義塾にぶつかります。右側は三田寺町と呼ばれる寺町が続きます。江戸城拡張に伴い八丁堀の寺社が芝、三田に移転させられたためのようです。長松寺には儒学者荻生徂徠の墓があります。赤穂浪士たちの沙汰について心情論はさておき法治国家として切腹を進言したと言われています。泉岳寺切腹した細川家下屋敷からもそれほど離れていない寺に荻生徂徠のお墓があるのも不思議な縁な気がします。

 f:id:tohrusampo:20180124160851j:image

ちなみに突き当たりの慶應義塾大学の裏手は伊予国松山藩松平隠岐中屋敷大石主税堀部安兵衛ら10名が切腹させられています。現在はイタリア大使館になっていて立ち入ることができません。慶応仲通りを抜けてJR田町駅手前に三河岡崎藩水野堅物屋敷跡があります。ここでも赤穂浪士9人が切腹しています。※残り10名は毛利甲斐守屋敷(今の六本木ヒルズ毛利庭園)で亡くなっています。

そろそろ三田高輪の高台の散策を終えます。赤穂浪士の影が色濃く残った丘陵地でした。

drive.google.com