東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

神谷町の谷を探る

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神谷町愛宕山の西側にそった窪地で、現在は虎ノ門5丁目となり町の名前は消滅しています。東京タワーの最寄駅としての日比谷線の駅名と交差点名、そして僕らの世代的には最近まで近くにあったテレビ東京の呼称として残っています。なお江戸初期はこのあたりいったいは西久保と呼ばれていたようです。

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まずは愛宕山を目指します。神谷町の交差点を北上して最初の信号を右折、愛宕トンネルをくぐってその先を左折すると愛宕神社の階段があります。出世の石段と呼ばれる86段の急階段です。愛宕神社のある愛宕山は東京23区内の自然山としては最高峰で海抜25.7m。階段下が4.6mとかなのでかなりの急こう配です。足腰に自信がない方は愛宕トンネルわきにエレベータがあるのでそちらを。愛宕神社の祭神は火産霊命。江戸を大火から守る為に祀られています。防火防災の神様です。

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参拝して芝増上寺方面に歩きます。愛宕ヒルズの敷地内のような場所に立派な山門の禅寺があります。曹洞宗萬年山青松寺泉岳寺と同様江戸三箇寺のひとつ。山門の中には四天王像がガラスケースで囲われています。

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歩道橋を渡って現在は正則高校と私立芝中学・高校になっている江戸時代からある切通の崖沿いに進みます。つきあたりのオランダ大使館はかつての駿河沼津藩水野出羽守屋敷跡オランダ大使館の隣には芝給水所があって屋上が公園として整備されサッカー場もあります。ここには半地下の「配水池」があって8万立方メートルの貯水能力で災害時に備えているそうです。都内にはこうした給水施設が200か所ほどあるらしいです。

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つきあたりは東京タワーへの坂道となる永井坂。麓の臨済宗金地禅院以心(金地院)崇伝創建のお寺。高校日本史で出てきましたよね。禁中並公家諸法度を起草した人でしたっけ。

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永井坂を下って麻布台一丁目交差点手前に西久保八幡神社があります。先に書きましたがもともと神谷町一帯は西久保と呼ばれていました。愛宕神社の西の窪(久保)地という意味でしょうか。西久保の地名が唯一ここに残っています。境内は高台で海抜22m。階段をあがると社殿があります。崇徳院(秀忠正室)が関ヶ原の戦勝を願って社殿を造営したと言われています。江戸時代は八幡山普門院という天台宗の寺院で神仏分離の結果現在の八幡様になったようです。境内裏手には貝塚もあったらしく西久保八幡貝塚の史跡案内板がありました。前に歩いた芝丸山貝塚や伊皿子貝塚同様武蔵野台地東端のこのエリアは、古代には海岸線がすぐ近くまで来ていた証拠です。

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飯倉へ戻って今度は外苑東通りを六本木方面に進みます。飯倉もかなり高台で神谷町側も赤羽橋側も坂道ですが六本木方面も緩やかな登り。ちょうどロシア大使館あたりが一番高いようで高度は28m愛宕山を超えています。

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麻布側に下る坂が何本かありますが皆急坂です。尾根伝いの道のようです。飯倉片町の交差点を右折します。港区立麻布小学校がありますがここは明治時代は紀州徳川家の邸宅だったそうです。維新後も残っていたんですね。ちなみに江戸時代は出羽国米沢新田藩上杉駿河守屋敷跡。米沢上杉家の支藩で麻布上杉家と呼ばれています。ちなみに隣地の麻布郵便局あたりは上杉弾正大弼(米沢上杉家本家)中屋敷でした。

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国道脇の行合坂を下り谷底で右折して落合坂に入ると外苑東通りと並行した崖下の窪地に入っていきます。魚の骨のような形の道で左右の路地はすぐ両側の崖につきあたります。背骨にあたる道が神谷町方面に進んでいます。我善坊谷と呼ばれる谷地です。江戸時代の古地図を見ると御先手組と呼ばれる江戸城各門の警備や将軍外出時の警護、治安維持にあたった人々の居住地だったようです。現在では人の気配もなく時間が止まっているかのような印象を受けるのは森ビルによる再開発へ向けて立ち退きが進んでいるからのようです。

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谷地のほぼ真ん中に左右に登り坂。右手が三年坂になる道、巨大な霊友会釈迦殿の裏手に繋がります。左手は我善坊谷坂。写真はそれぞれの坂側から我善坊谷方向を見ています。

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我善坊谷坂を登ると仙石山但馬出石藩仙石家の屋敷跡です。高台で開けているので東京タワーが映えます。このエリアは江戸時代は大名屋敷でしたが森ビルによる再開発が進んで真新しい高層オフィスビルと住居棟が立ち並んでいます。城山ガーデンとの間の緑道を下ると神谷町の駅に戻ります。

神様の住む愛宕山の西の谷町は森ビルに開発された愛宕山、仙石山、城山に囲まれた谷地でした。ひっそりと残った我善坊谷もまもなく姿を変えようとしています。

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