東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

青山家の屋敷街を歩く。

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渋谷駅から宮益坂を上って青山方面に向かいます。坂下が海抜19m坂上33mあります。そこそこの登り坂です。宮益坂の中腹、海抜25mほどのところの左側に御嶽神社があります。祭神は日本武尊。50段ほど階段をあがるとビルに囲まれた社殿があります。なぜか狛犬は普通の犬。小規模な神社ですがちゃんと三の鳥居まであります。裏の通りは美竹通りといいます。「御嶽」から来ているのでしょうか。

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国道246号線青山通りに入ります。江戸時代は大山道と呼ばれ相模国大山に鎮座する大山阿夫利神社への参詣道でした。大山阿夫利神社は雨乞いの神様で江戸時代の農民たちの崇敬の対象となっていたようです。まもなく道の左側に青山こどもの城と国際連合大学が見えてきます。

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こちらは江戸時代の稲葉長門守(山城国淀藩)屋敷跡。淀藩は江戸幕府にとっては西国の要となる畿内藩で、正成系稲葉氏の初代稲葉正成の妻は家光の乳母となった春日局です。なにか形跡はないかと裏手に回ってみるとTBSハウジングの広大な住宅展示場になっています。敷地内は高低差もあって低地部分は池になっていました。琵琶池というらしいですがおそらく大名屋敷内の湧水池だったのでしょう。アオサギが魚を狙っていました。海抜は26m

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道の反対側は青山学院大学、江戸時代の松平左京大夫屋敷跡。伊予西条松平家という紀伊徳川家の支藩です。親藩でありながら戊辰戦争には官軍として参戦しています。3万坪の敷地でしたが1882年(明治15年)に総額6000円で購入されたそうです。一坪20銭ですね。※青山学院HPより

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骨董通りのT字路を過ぎると表参道の交差点。その少し先を左に入ると善光寺別院があります。信州善光寺百済聖明王の時代からの縁起がある無宗派の日本最古の仏教寺院ともいわれ、こちらの別院も門前町も形成されていたようです。境内には蘭学者高野長英の碑がありました。蛮社の獄から脱獄後この地で亡くなったそうです。

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骨董通りから外苑前の先くらいまで百人組と呼ばれた江戸を警備する鉄砲隊の屋敷が大山道の両側にあったようです。現在も新大久保駅周辺に百人町という地名がありますが青山や市ヶ谷にも百人町があったようです。

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表参道の信号で通りを渡ってプラダカルティエなどのラグジュアリーブランドが立ち並ぶみゆき通りを進みます。海抜は33m宮益坂上から青山通りはほぼ平坦です。つきあたりが根津美術館。江戸時代は秋月佐渡守屋敷(日向国高鍋藩)で裏手には長谷寺とその門前町が広がっていたようです。海抜は31m。緩やかに下っていたようです。

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右に進んで敷地をぐるりと回ると高樹町の交差点に出ます。富士フイルムの社屋の横を入ると正面が長谷寺です。曹洞宗大本山永平寺別院。門をくぐった右手の観音堂には麻布大観音と呼ばれる高さ10mの十一面観世音菩薩立像があります。海抜はこちらも31mと高台のままです。

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長谷寺の敷地にそって道なりに路地を進むと根津美術館から左手に降りてくる坂道(写真に見えるのは根津美術館の壁)に合流します。写真の分岐点は少し根津美術館側に戻ったところです。海抜は19.3m。交互に一方通行の細道で西麻布の交差点の方に曲がりくねりながら下ってまた合流します。川の流れを感じ暗渠の予感がします。今回はどちらにもいかず写真の左手の路地を進みます。

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まもなく青山の庚申塔が出てきます。海抜は19.7m。石碑にも書いてありますが左に行くと先程の善光寺別院ですが右手に向かいます。青山霊園立山墓地沿いを進む形になります。この辺りも若干暗渠っぼさがあります。

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しばらく行くと青山の窪地を実感する場所に出ます。赤坂通りの乃木坂トンネルをくぐった青山墓地の先が高架になっていますが、その真下です。高度差は10m程ありそうです。深い谷地です。(正確にいうと公園が19.5m、高台の崖上が30mです)

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舌下状の台地の左右に谷地が広がってます。右側は外苑西通りに沿って道なりに進みます。今回は左側の谷地を進みます。登り坂です。海抜20m地点から27m地点まで登ります。左手の高台は長者ヶ丸と呼ばれたエリアです。

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突き当たりはT字路。振り返ると急坂で右側に石造りのガードのようなものがあります。これは何でしょうか。ここを右折して外苑西通りを超えて突き当たりのY字を左手に坂を登ると梅窓院の裏手に出ます。海抜は33mほど。梅窓院はこのあたりを所有していた青山大膳亮美濃国郡上藩)の菩提寺です。山門の正面が外苑前の交差点です。

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この辺り一帯が青山と呼ばれているのは青山家の屋敷があったためですが、青山通りの南側が前述の青山大膳亮の広大な屋敷、北側の現在港区立青山中学校のあたりが青山下野守丹波国篠山藩)、そして高橋是清記念公園やカナダ大使館あたりが青山備前守(旗本青山幸覃?)と広範囲に渡ってます。一応宗家は青山下野守のようです。

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青山家の分家である美濃国郡上藩の一番有名な屋敷跡を目指します。青山霊園です。青山通りを赤坂消防署入り口の信号から右折した突き当たりです。明治維新廃仏毀釈もあり仏教寺院の葬式宗教が薄れ墓地の需要が急騰、青山霊園雑司が谷霊園が作られました。

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直進すると青山霊園中央の交差点。右へ行くと先ほどの谷地から見えた高架の上、直進すると西麻布方面かおたんラーメンあたり、左に行くと乃木坂トンネルです。海抜は32m。左に行きます。

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乃木坂トンネルは青山側からはハーフパイプ外苑東通りを渡り地下に潜ります。歩行者はトンネル内には入れないので右脇の歩道を歩きます。

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外苑東通りを過ぎると高台上に国立新美術館が見えます。こちらは江戸古地図では伊達遠江屋敷、伊予国宇和島藩伊達家です。初代伊達秀宗は伊達正宗の長子でありながら仙台伊達藩を継げず数奇な運命を辿った藩主でした。

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トンネルを越えると乃木坂駅手前の袋小路に出ます。外苑東通りを渡ると赤坂です。この辺りまでが青山家の屋敷だったようですね。海抜は31mあります。

青山学院から青山霊園まで青山の名が残るエリアを歩いてきました。武家屋敷跡あり門前町あり高低差ありの楽しいエリアでした。

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