東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

御殿山の台場の謎を探る

1853年7月8日ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航します。12代将軍徳川家慶の病を理由に回答に一年の猶予をもらった江戸幕府は品川沖に11の砲撃用の台場を作ることを計画、早速実行に移します。フジテレビのあるお台場には台場公園として第3台場がそして台場側から見てレインボーブリッジ左手側に第6台場が現存しています。実は品川側にもお台場の痕跡があるらしく今回はそれを探しに行きます。

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品川駅高輪口を出て左手に向かい八ツ山橋を渡ると旧東海道の入口になります。車一台が通れるくらいの石畳の歩道の趣のある商店街が続いています。海抜は旧東海道入口で10mありますが東海道を進むと6mまでさがります。

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東禅寺事件もあり、開国後御殿山にイギリス公使館を作ろうとした幕府に対して高杉晋作らが焼き討ちを相談したという相模屋(土蔵相模)の先を左手に曲がります。この辺りは品川宿の入口付近で歩行新宿(かちしんじゅく)と呼ばれていました。

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通りを渡ると乗合船や屋形船が停泊している運河に出ます。実はこちらは本来の目黒川の河口です。橋を渡った向こうは目黒川が運んだ土砂が堆積して猟師町になっていたそうです。海抜は2mまで下がってきました。

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江戸古地図を見ると目黒川が寺町を抜けると北西方向に湾曲して東京湾に流れていたのがわかります。先ほどの運河がこの流れ跡です。地図には河口の弁財天の隣に松平相模守御薹場の記載もありますね。品川の御台場はここにありました。

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この台場は御殿山下台場と呼ばれ実際はホームベース型の五角形で三角形部分の頂点が海の方を向いていました。現代の地図で見ると台場の五角形がしっかり残っていますね。こういう地図上に残った跡はワクワクします。古地図の弁財天は地図上の利田神社になります。

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敷地内の品川区立台場小学校にはちゃんと御殿山下台場砲台跡があります。工事の際に出土した石垣が積まれています。灯台は明治3年に設置された品川灯台を模したものだそうです。海抜は2.3mと台場埋め立て部分はほぼ平坦です。

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旧目黒川の流れを想像しながら現在の目黒川方面に漁師町の裏道を歩きます。山手通りを渡ってしばらく行くと寄木神社という小さな神社があります。小さな社殿ですが本殿扉に鏝絵(こてえ)と呼ばれる見事な漆喰絵画があります。天照大神、天鈿女命、猿田彦命が描かれています。食い入るように見ていた参拝者がいなければ通り過ぎるところでした。こちらは一見の価値ありです。海抜は2.9m

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目黒川に出ます。満潮時なのか潮の流れでゆったりと逆流しています。海が近いです。洲崎橋を渡って海を目指します。昭和橋の信号を渡ると整備された東品川海上公園にでます。目黒川河口です。かつてはこのあたりは海面だったはずです。2つ目の台場跡があるのが橋の向こうに見える天王洲アイルです。

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羽田空港へのモノレール駅がある天王洲アイルの一角にシーフォートスクエア(海の砦)と呼ばれる街区があります。ウッドデッキで覆われた回廊の土台部分に第4台場の形跡が残っています。まさに海の砦でした。海抜は上の石垣部分で4.5mありますがウッドデッキは下り坂で先端部分は2mまで下がります。水深もかなり浅いようです。

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途中の天王洲公園に江戸時代寛政年間天王洲の海に鯨が現れ大騒ぎになり将軍まで見にきたという案内がありました。その時の鯨塚が先ほどの御殿山下台場近くの利田神社脇にあります。 何気なく写真におさめてましたがそういう話だったんですね。ちなみに利田神社の海抜は1.8mです。

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さて天王洲の天王は北品川の品川神社と南品川の荏原神社がそれぞれ北の天王社南の天王社と呼ばれていたことによります。目黒川の流域が変わって荏原神社は今は目黒川沿いの北品川側にあります。荏原神社は海抜3.5mですが、高台にある品川神社16.7mあります。

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突貫工事で作った御殿場下台場は近くの桜の名所御殿山を切り崩した土砂で作ったそうです。名所江戸百景にも崩れた崖の御殿山の浮世絵があります。写真の御殿山トラストタワーの庭園の窪みもその名残りです。その他の台場も泉岳寺や八ツ山あたりの土砂を利用しています。その間東海道は通行が制限され高台の二本榎通りを通らされたようです。品川宿の打撃も大きかったことでしょう。御殿山に峰続きだった線路のこちら側、桜の名所の権現山公園の標高は18mありますが御殿山の御殿山庭園部分は7mまで窪んでいます。

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 最後に東海寺に向かいます。徳川家光により沢庵宗彭を招聘し創建された臨済宗の寺院です。幕府の手厚い保護を受け5万坪近くの寺域を有していましたが、台場の土砂の切り崩しや明治政府による接収、線路の切り通しなどで衰退しました。丹波篠山藩青山家菩提寺のようです。さすがに青山墓地ではないんですね。目黒川沿いに追いやられ海抜は4mほどです。

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少し離れた山手通りと東海道線を越えた先に東海寺大山墓地があります。山手通りの墓地入口付近は海抜1.2mとかなり低くなってますが、山上の沢庵宗彭の御墓の海抜は9mほど。線路の向こうの権現山公園含め、品川神社のあたりまで広い敷地を有していたそうです。品川神社自体が東海寺の鬼門を守る鎮守だったようです。

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先程の品川神社の本殿裏には板垣退助の墓がありました。以前参拝したときに裏手に回って見つけた時に、何故に神社にお墓が?と不思議に思っていましたが、もともとこの墓のある場所は東海寺の塔頭高徳院だったようです。東海寺の権勢の証左ですね。

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さて沢庵宗彭のお墓の近くには鳥居があって国学者賀茂真淵のお墓がひっそりとありました。古事記伝本居宣長の師匠でもあり、国学四大人と呼ばれたひとりです。

国学はその後平田篤胤による復古神道の提唱、尊王攘夷思想の目覚め、そしてペリーによる開国と、幕末の大きなうねりがやってくるわけですね。御殿山下台場を探る旅にふさわしいゴール地点です。

 

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