虎ノ門・新橋界隈をぐるりと
虎ノ門交差点(海抜6.5m)には虎がいます。江戸城外堀虎ノ門跡の碑です。この碑の対角線側で1923年(大正12年)虎ノ門事件という裕仁皇太子・摂政宮(昭和天皇)の狙撃事件が起きています。勿論未遂に終わりましたが当時の山本権兵衛内閣は総辞職、警視総監、警視庁刑務部長は懲戒免官、犯人難波大助の出身県山口県知事は2カ月減俸、卒業した小学校の校長と担任は辞職、父親の衆議院議員難波作之進は自宅を閉門し蟄居、絶食のうえ餓死したそうです。時代ですね。。
実際の虎ノ門はもう少し皇居より、おそらく地図上の黄緑色に塗られた公開空地あたりにあったようです。さて虎ノ門の交差点から外堀通りの一本皇居よりの一方通行の道を新橋方向に進みます。おそらくこのあたりが外堀跡で汐留川と呼ばれていた流れの河岸です。現代の地図で見ても途中で折り曲がった怪しく細長い街区(オレンジ色部分)があります。江戸時代は河岸通りと呼ばれこれより先に新シ橋、幸橋御門、土橋、難波橋、芝口御門(新橋)と橋が続いていたそうです。まずはその跡を探してみます。
新橋、虎ノ門エリアは再開発が加速しています。新シ橋と思われるエリアも工事中(地図の汐留川が折れ曲がって段差ができているあたり)通行止めのため堀の皇居側を進みます。工事エリアをすぎてもとの道へ戻ったところ(写真上は新し橋方向を振り返っています)に石垣が積まれています。付近の工事の際に地下4mから出土した江戸城外郭の石垣だそうです。海抜は4.2m。
そのまま(日比谷通りを迂回しつつ)直進すると幸橋御門。櫓見附で石垣があったはずですが跡には何も残っていません。不自然なスペースを感じる第一ホテル前のこのあたりでしょうか。海抜は3.8m。JRの高架下に名前の名残を発見しました。幸橋の内側のエリアを今は内幸町と呼んでいます。
このあたりから汐留川の跡には首都高が上を走るようになります。堀沿いの道は御門通りという名前がついています。御門通りは土橋、難波橋をこえると銀座中央通りとの交差点、ここが新橋です。新橋の街の名前の由来はここからです。ここにはかつて芝口御門という門がありました。傍らに碑もたっています。
また芝口御門の先には三十間掘という堀があったそうです。今の昭和通りと中央通りの間です。晴海通りの三原橋はこの流れの先に架かっていたわけですね。このあたりでその堀は汐留川と合流して海に流れていたようです。
せっかくなので汐留川の河口まで足をのばします。浜離宮の表門からの流れがありますが今回は首都高沿いに南下します。堀の工事個所があってテレビ東京の「池の水全部抜く」なみに水抜きをして石垣の修復をしていました。浜離宮庭園前の信号をわたって新橋方面に戻ります。
新橋五丁目の交差点を直進してしばらくいくと左手に塩釜公園があります。鹽竃神社の境内です。なぜに塩釜?と思って確認するとこちらはやはり江戸時代は松平陸奥守中屋敷跡(仙台伊達家)。海抜は3.2m。新橋は飲食店の多い繁華街エリアですが江戸時代は武家屋敷街だったようです。
中川修理大夫中屋敷(豊後国岡藩)や分部若狭守上屋敷(近江大溝藩)、溝口主膳正上屋敷(越後新発田藩)、酒井志摩守上屋敷(上野国伊勢崎藩)、毛利出雲守上屋敷(長門国長府藩)、松平内蔵頭中屋敷(岡山藩池田家)などの大名屋敷エリアの中に神社があります。烏森神社です。夜しか来たことなかったですし、横丁から入ってましたが正面に参道もあるんですね。海抜は3m程度です。
烏森神社をでて日比谷通りをこえて虎ノ門ヒルズ方面に進みます。南桜公園(海抜4.8m)という公園があります。こちらは堀田豊前守上屋敷跡(近江宮川藩)です。その先は毛利安房守上屋敷(豊後国佐伯家)、土方備中守上屋敷(伊勢国菰野藩)と続きます。
環状2号線を渡ると田村右京大夫上屋敷跡。初代陸奥一関藩の藩主田村建顕の時、忠臣蔵の播磨赤穂藩浅野長矩がこの藩邸の庭で切腹しています。日比谷通りを越えた先に浅野内匠頭終焉之地の石碑があります。海抜は3.4m。
虎ノ門ヒルズに向かいます。ヒルズの左脇を抜けて最初の路地を左に入ると愛宕神社裏の寺町になります。猿寺栄閑院というやたらと猿が目立つお寺に解体新書の蘭学者杉田玄白の墓がありました。海抜6.3m。
もう少し歩きます。神谷町方面にでてつい最近までテレビ東京のあった城山を登ります。右手は松平右近将監屋敷(石見国浜田藩越前松平家)ですがかつてこの辺りは江戸城築城の際の土取り場だったそうです。つきあたりを右に曲がると土岐美濃守上屋敷(上野国沼田藩)、現在は白壁の菊地寛実記念智美術館になっています。
改装中のホテルオークラの脇を通り急坂の江戸見坂をくだり汐見坂を登ります。海抜で言うと25mから7.5mまでくだり14.4mまで再び登ります。ホテルオークラは松平大和守(武蔵国川越藩)、汐見坂右手の共同通信、虎ノ門病院の敷地は松平肥前守中屋敷(佐賀藩鍋島家)でした。突き当たりに重々しい警備をしているアメリカ大使館があります。山口筑前守上屋敷(常陸国牛久藩)です。
ここから日本財団とJTビルの間をまっすぐに続く道があります。海抜は9mほど。江戸古地図によると馬場と表記されています。その先は溜池です。馬場をくだり右折して道なりに以前歩いた外堀通り沿いをいくと虎ノ門駅に戻ります。
ぐるりと回ってきました。汐留川は埋め立てられ、鉄道や日比谷通り、マッカーサー通り(環状2号線)で分断され街の様相は変わりましたが、新橋界隈は意外に屋敷町だったんですね。