東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

三田綱町界隈を歩く

今日は三田駅からスタートして三田の丘陵地を歩いてみます。まずは慶応仲通り商店街を抜けます。入り口すぐ右手に三河岡崎藩水野監物中屋敷があります。赤穂浪士9名がお預けとなった屋敷のひとつです。海抜は3.8m

f:id:tohrusampo:20180211180122j:imagef:id:tohrusampo:20180211180137j:image

三田通りに出て慶応義塾の東門(海抜7m)から中に入ってみます。かつては幻門と呼ばれて趣のある門でしたが、今は近代的な建物に様変わりしています。階段を登り、更に石畳の登り坂を進みます。慶応義塾の敷地全体が高台にあることがわかります。海抜は18m。生憎重要文化財慶応義塾図書館旧館は修復作業中でした。ここは江戸時代は松平主殿頭中屋敷肥前国島原藩松平家)でしたが、明治4年福沢諭吉が政府から土地を借り受け芝新銭座から慶応義塾を移転させています。

f:id:tohrusampo:20180211180854j:image

敷地を縦断して西門を出ると綱坂です。海抜は8m。渡辺姓のルーツと言われる渡辺綱(わたなべのつな)がこの辺りで生まれたという言い伝えがあり坂の名前はそこから。平安時代中期清和源氏3代目源頼光の四天王の一人として活躍したと言われています。坂田金時(金太郎)もそのひとりとか。この辺りの旧町名を三田綱町といいます。

f:id:tohrusampo:20180212133407j:imagef:id:tohrusampo:20180211183515j:image

坂を登る右手がイタリア大使館、左手が綱町三井倶楽部になります。イタリア大使館松平隠岐伊予松山藩久松松平家中屋敷跡、ここにも赤穂浪士がお預けとなっていました。三井倶楽部は島津淡路守日向佐土原藩上屋敷跡です。坂上の海抜は18.2m

f:id:tohrusampo:20180212133445j:imagef:id:tohrusampo:20180212133504j:image

坂を登り切って三田側(都立三田高があります)の下り坂が綱の手引き坂、麻布側が日向坂になります。島津淡路守が日向国だったためと思われます。

f:id:tohrusampo:20180211184848j:imagef:id:tohrusampo:20180211184914j:image

麻布側に進んですぐ右手の坂を下ります。神明坂です。坂を下ったところに元神明宮天祖神社があります。海抜は9m天照皇大御神水天宮が祀られています。渡辺綱産土神として多くの武人に崇拝されていたようです。今は外観はコンクリート打ちっ放しのRC造建築で、木造社殿が中にある覆殿構造。手水舎もセンサー式で驚きます。

f:id:tohrusampo:20180211185822j:image

神明坂の右側は今の三田通りまで江戸時代は有馬中務大輔上屋敷で、江戸古地図にも元神明と水天宮の表記があります。神明宮は芝大神宮(飯倉神明)に遷されたことにより元神明となり、水天宮は有馬家の屋敷移転等もあり最終的には日本橋蛎殻町の水天宮になっています。もともと水天宮様は福岡県久留米の久留米水天宮分社ですが、有馬家は筑前福岡久留米藩の藩主でした。

f:id:tohrusampo:20180211213342j:image

元神明宮の石垣沿いを進むと古川(渋谷川)にかかる中の橋に出ます。海抜は橋のたもとで3mまで下がっています。左手が黒田甲斐守筑前秋月藩)屋敷です。黒田長政三男長興に始まる福岡藩支藩です。この辺りは再開発が進み昔の面影はないようです。

f:id:tohrusampo:20180212091305j:plain

名所江戸百景:赤羽橋(有馬屋敷内の火の見櫓)

f:id:tohrusampo:20180212091315j:image

右手の有馬家の旧屋敷沿いに進むと赤羽橋です。三田病院や済生会中央病院が並びます。赤羽橋の信号に稲荷社があります。こちらは江戸古地図にもある社です。増上寺側から見た名所江戸図絵に赤羽橋の浮世絵があります。有馬家敷地内にあった火の見櫓(今の赤羽小学校・三田高校あたり)が描かれています。「湯も水も火の見も有馬の名が高し」という言葉遊びもありました。湯は有馬温泉、水は水天宮、そして火はこの火の見櫓を表していました。高度な言葉遊びですね。今度は戻って麻布側に進みます。直進すると一の橋ですがこちらも特に名残はないようなので一本路地を入ってみます。

f:id:tohrusampo:20180211191902j:imagef:id:tohrusampo:20180211192031j:image

讃岐会館があります。江戸古地図を見ると大和国郡山藩柳沢家になっているので讃岐国とは関係のないようですね。昭和26年に香川県が購入しているようです。讃岐会館の前のビルの片隅に銀杏大明神という小さな稲荷社があります。この付近にあった大銀杏が御神体のようです。元神明宮にも合祀されているようです。海抜はこのあたりで5.3m

f:id:tohrusampo:20180212202932j:imagef:id:tohrusampo:20180212203000j:imagef:id:tohrusampo:20180211193951j:image

讃岐会館から路地を入ると古い町並みが残っています。三田小山町と呼ばれていたエリアで北側と西側を古川に囲まれた窪地です。海抜も4m前後。昭和的な懐かしさを感じるエリアですがこちらも再開発が近づいているようです。路地の奥に小山湯という銭湯の建物が残っていました。すでに営業はしていないようです。

f:id:tohrusampo:20180211194247j:image

 小山湯の脇の細い路地を進むと狭い階段があります。二段になっていて高台との段差が8mほどあります。海抜は12.5m。坂を登ると新しい住宅地になっています。

f:id:tohrusampo:20180212134546j:imagef:id:tohrusampo:20180212195136j:image

住宅地を抜けると寺町になり、當光寺の脇から先ほどの日向坂に出ます。當光寺は正式には綱生山當光寺で、まさに綱が生まれた地で、表札の住職の方も渡邊姓、名前には綱の字もついていました。海抜は16.2m。正面のオーストラリア大使館は織田出雲守丹波柏原藩)屋敷跡です。織田信長の次男信雄の五男高長系です。坂を下りるとニノ橋です。(海抜5.2m

f:id:tohrusampo:20180211212257j:imagef:id:tohrusampo:20180212134247j:image

札の辻近くにある三田の総鎮守の御田八幡宮は元は平安時代中期武蔵国御田郷三田窪(久保)に鎮座したとあります。江戸古地図にもこの三田綱町、三田小山町あたりは三田久保丁と記されており、先ほどの讃岐会館内には三田八幡宮古跡もあります。石碑には渡邊綱尊敬の文字が刻まれていました。当初は渡辺綱氏神的な位置付けが強かったのかもしれません。

武家屋敷と寺町、渡辺綱伝説と印象的な三田小山町の一角の町並みなど狭いながらも歴史的にも地形的にも起伏あるいい町でした。

drive.google.com