東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

東麻布界隈を歩く

西麻布にくらべるとあまり耳慣れないですが麻布十番の東側には東麻布もあります。麻布台の高台の稜線である外苑東通りと低地の古川に挟まれたエリアです。東側を国道1号が走り、西側を五反田方面からの桜田通り白金高輪で分岐)の直線上にあたる麻布通りが走っています。麻布台の高台からは南北にいくつかの坂が走っています。登り降りになりそうですが今回は東麻布界隈を歩いてみます。

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最寄駅の大江戸線麻布十番駅から歩きます。出口すぐに麻布十番稲荷があります。海抜は9m。江戸古地図で見ると現在よりもう少し東側の長坂町というところに朱色に塗られた『イナリ』の表記があります。調べてみると昭和25年に戦後復興土地区画整理のため旧坂下町末廣神社と旧長坂町の竹長稲荷神社が当地に遷座し、その後合社されたとあります。おそらくこの竹長稲荷神社が古地図のイナリでしょう。末廣神社の方は現在の麻布十番商店街の真ん中あたりに坂下町という表記があり「末廣イナリ」とあります。こちらのようです。

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赤羽橋方面に進みます。まもなく先程の長坂への入り口が左手にでてきます。海抜8.2m。ジョナサンのあるカーブを描いた通りです。首都高沿いの今の麻布通りではなく江戸時代はここが飯倉方面への坂の入り口だったようです。今では永坂の表示になっています。坂は飯倉片町へ向かう麻布通り途中で本来の永坂に分かれます。分岐の海抜は23.4m坂上の表記のあたりは29mです。

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新一の橋交差点には麻布永坂更科本店という昭和25年創業の蕎麦屋がありますが、更科蕎麦の源流ともいえる麻布十番更科そばといえば更科堀井です。麻布十番商店街にある更科堀井は上総飯野藩保科家(保科家旧領は信濃高遠藩江戸屋敷近くだったこの麻布の町に1789年に創業した信州更科蕎麦所布屋太兵衛が起源。布屋太兵衛の本名は保科家の御用布屋であった堀井清右衛門で更科堀井の本流です。布屋太兵衛は関東大震災や昭和恐慌等で廃業となり後に「永坂更科」の商標を取得したのが麻布永坂更科本店です。若干ややこしいですね。ちなみに永坂更科布屋太兵衛も十番商店街にあります。かなりややこしいですね。

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名所江戸百景:高田馬場

さて、江戸古地図をみるとプレゴの先あたりから永坂更科も含め新一の橋を越えた古川沿いに馬場の表記があります。馬場といえば高田馬場が思い浮かびますが溜池や御成門にもあったようにここにも十番馬場というのがあったそうです。海抜4.6mほどです。

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馬場の先には京極佐渡讃岐国丸亀藩中屋敷がありました。海抜4.3m。外国人向けスーパー日進ワールドデリカテッセンの前あたりです。今は虎ノ門にある金比羅宮はかつてはこちらの中屋敷にあったようです。京極家室町幕府四職として侍所別当などについた武家ですが織豊時代、江戸時代も生き抜いて明治になって子爵となっています。屋敷跡手前を左に入ってみます。

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つきあたりは狸穴公園(海抜7.6m)。狸穴稲荷大明神という神社も園内にあります。こちらの狸はタヌキではなくマミと読みます。(まみ)はタヌキともアナグマともムジナとも混同されているそうです。イノシシとも読みます。坂名は狸と猯の字が混同されているわけですがここの穴の動物はなんだったんでしょうか。

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公園の先を進むと鼠坂植木坂鼬坂と急坂との出会いが続きます。鼠坂の左手は江戸時代は松平右近将監石見国浜田藩越智松平家下屋敷跡です。徳川慶喜の異母弟松平十郎麿(武聰)の下屋敷です。このあたりの坂の名前は諸説あるようです。鼠と鼬の漢字が混同されているとか、鼬坂入り口に江戸時代植木屋ツジドウがあったから植木坂はこちらであるとか、結局全て同じ坂だという説もあるようですね。

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植木坂は現在は外苑東通りから鼬坂を降りてきた地点から麻布通り方面に登っていく坂になっています。坂上の越智松平家屋敷跡にはブリジストン石橋財団があります。海抜は27m麻布永坂町の高台です。

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坂の表記はないですが鼬坂といわれる外苑東通りにでる坂道の途中に島崎藤村旧宅跡の碑がありました。「破壊」「夜明け前」が代表作ですが私小説ではないようですね。島崎藤村本人は産まれこそ岐阜県ですが、アルマーニで今話題の泰明小学校出身で明治学院で学んでいます。

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外苑東通りを飯倉の方に進むとロシア大使館手前に急坂があります。こちらが狸穴坂です。坂の入口で海抜は26.7m。左側はロシア大使館とアメリカンクラブの敷地になっています。江戸時代は秋田安房陸奥国三春藩中屋敷戸澤上総介出羽国新庄藩上屋敷でした。ちなみに東麻布高台のエリアは住居表示未実施地区で麻布狸穴町麻布永坂町という古い町名が残っています。逆に坂下の東麻布は区画整理もされた分、少し味気ない街並みになっています。

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坂を下って左手にしばらくいくと麻布いーすとストリートという商店街が出てきます。区画整理の前からある道で国道1号から中の橋に斜めに繋がります。海抜は商店街入り口で4.1mです。この通りと国道1号と古川に挟まれた三角形の土地は江戸時代には森元町と呼ばれる町屋がありました。善長寺順了寺円明院心光院などの寺院と大縄地と呼ばれる下級武士の屋敷地があったようです。 

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江戸古地図を見ると順了寺裏に外国人旅宿とかかれた敷地があります。少し古い古地図だと青木美濃守屋敷になっているところです。現在の地図に重ねると飯倉公園、飯倉保育園のあたりです。公園には文字色はだいぶ薄れてますが解説板がありました。海抜は5.1m

安政6年(1859年)前年の日米修好通称条約に始まりオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を締結し各国使節の宿舎が必要になりこの地に「外国人旅宿」が作られたようです。同時期アメリカ公使ハリスは下田から麻布十番の善福寺に移っています。以前歩いた高輪東禅寺や御殿山の土蔵相模のようなイギリス公使襲撃事件などの攘夷運動もこの後頻発します。

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道路を南下すると赤羽橋です。増上寺の赤羽門と火除け地があり高札も立っていたようです。こちらにあった順了寺、円明院などの寺社は殆どなくなっていますが唯一心光院は戦後の区画整理で移転し東京タワー下に残っています。赤羽橋交差点の海抜は4.5mです。

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国道1号を登ります。飯倉へと続く急坂ですが坂名の表記は何故かありません。坂の名前は土器坂、土器は「かわらけ」と読むそうです。

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野田岩本店の前の歩道橋を渡ると瑠璃光寺と元は赤羽橋にあった心光院(海抜13.4m)があります。心光院表門はそのまま移築されているようです。背景の東京タワーが不思議と調和しています。国道1号を渡りましたがこちらも東麻布です。

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戻って飯倉方面へ登る左側に飯倉熊野神社があります。かつては隣接している旧飯倉小学校の校地の一部も境内地だったようですが今は小規模な神社になっています。海抜は社殿で13.6m

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飯倉の交差点を左折して榎坂という緩やかな登り坂をのぼってすぐのロシア大使館手前の道を入ります。一乗寺、真浄寺と日蓮宗の寺院が続き右手は会員制アメリカンクラブとなります。

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突き当たりのアフガニスタン大使館右手の空き地に日本経緯度原点があります。明治7年こちらに暦作成のため海軍の観象台が作られ、明治21年東京天文台となったそうです。南面はひらけた丘の上にあって海抜は26mありますが、今は都心の明かりで天体の観測などできそうにないですね。ちなみにこの辺りは尾張徳川家お抱え屋敷でした。

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外苑東通りを進むと飯倉片町の交差点です。左折して坂を下ると新一の橋の交差点、直進すると六本木交差点です。(写真は飯倉方面を振り返ったところです)

東麻布の町を歩いてきました。住居表示への反対運動もあり東麻布とはならなかった麻布永坂町麻布狸穴町、麻布台町といった古い町も残り、一見地味ながらも外国人旅宿跡や天文台跡なども残る坂の町でした。

 

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