東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

穏田川の猫通りをいく

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戸切絵図(地図左下)にもあるように宮益坂御嶽神社裏手の美竹通り辺りにはかつて江戸城紅葉山から移転した千代田稲荷がありました。関東大震災後、箱根土地(現西武グループ)による商業開発エリアであった道玄坂途中の百軒店(ひゃっけんだな)に移転したそうです。今では海抜31.2mのラブホテル街の真ん中に鎮座しています。

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さて宮益坂下(海抜17.3m)から明治通りを原宿方面に進みます。最初の信号が宮下公園(再開発で宮下公園は現在工事中)です。御嶽神社宮益坂、美竹(御嶽)通りからてっきりその御嶽神社の宮下だと思っていましたが、実は明治時代ここの高台に旧宮家梨本宮邸があったことによるようです。新井白石の提言もあり世襲親王家であった伏見宮有栖川宮桂宮に続いて1710年閑院宮がつくられました。118代桃園天皇の時早くも皇統断絶の危機が訪れ閑院宮家から光格天皇が即位します。1779年のことです。今上天皇はその流れです。後桃園天皇崩御の際世襲新王家筆頭の伏見宮貞敬は次期天皇の有力候補にもなっています。その第1王子伏見宮邦家山階宮華頂宮東伏見宮久邇宮北白川宮等多くの宮家を作ります。そしてその弟守脩は梨本宮をたて渋谷のこの地に住むようになります。広大な土地で青山通りのあたりから2万坪ほどあったようで屋敷跡はちょうど美竹通りの渋谷区仮庁舎あたりから、旧渋谷小学校、青山パークタワーあたりだったようです。

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明治通りの宮下公園の少し先から斜めに入る小道があります。海抜は15.7m裏原宿と呼ばれるエリアに続く道でキャットストリートと呼ばれています。実はこの道は前回の東京五輪前に埋め立てられた暗渠です。渋谷駅手前で渋谷川は地中に消えこの辺りでは蛇行しながら地下を流れています。かつて渋谷川宮益坂下にあった宮益橋で支流の宇田川と合流、それより上流は穏田川おんでんがわ)と呼ばれていました。穏田川沿いを歩いてみます。

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いかにも暗渠の風情のある道を進みます。右手の渋谷教育学園渋谷中高校は旗本花房志摩守屋敷跡でした。五反田の花房山との繋がりは不明です。花房家は江戸時代は備中高松(岡山市高松地区)に領地をもった高禄の旗本だったようです。花房山は初代岡山市花房端連の長子花房義質子爵の別邸があったことから名付けられていますのでどこかで繋がっていそうです。

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キャットストリートが二股に分かれる手前の右手裏の高台に穏田神社があります。海抜は20.2m。江戸古地図では第六天と書かれています。もともとは日蓮宗の寺院です。神仏習合では絶大なる魔力を持った欲界の最高位の魔王という設定です。転じて欲望を叶えてくれると考えられたのでしょうか。明治の廃仏毀釈で穏田神社となり祭神も神代七代の第六代 淤母陀琉オモダル)神・阿夜訶志古泥アヤカシコネ)神の二体の神になっています。ちなみに第7代がイザナギイザナミです。もともと明治通りの先にあった松平日向守糸魚川藩越前松平家)屋敷隣の熊野権現明治18年に合祀されているようです。f:id:tohrusampo:20180304164606j:imagef:id:tohrusampo:20180304205648j:image

この先穏田川沿いの地は江戸古地図では田畑、百姓地と記され、『此辺ヲンテン』と明記がされています。いろいろ説はあるようですが家康が本能寺の変の伊賀越えに恩を感じこの辺りを伊賀衆に給地として与えたと言われています。隠れ里的な意味合いや恩田的な意味合いでしょうか。

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さて、再び穏田川を進みます。若者で賑わうお洒落ストリートです。本来はこちらが本流だったのでは?と思うような脇道もあります。しばらく行くと穏田橋(海抜17.4m)と書かれた橋の跡や表参道の交差地点には参道橋(19.3m)の跡もあります。

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穏田の両側には松平安藝守安芸広島藩浅野家)、戸田長門下野足利藩)、水野石見守松平美濃守筑前福岡藩黒田家)の下屋敷がありました。大正時代明治神宮ができたことにより東西に表参道が通ることとなり松平安藝守屋敷跡は分断されすっかり変わっています。ポールスチュアートの石垣も浅野家屋敷の名残りだそうです。

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表参道ヒルズの脇の暗渠を進みます。こちら側にも参道橋の跡があります。竹下通りの延長線上の路地を入り明治通りを渡ったところに東郷神社(海抜22m)があります。

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江戸時代は松平美濃守筑前福岡藩黒田家)屋敷でその後明治に入り因幡国鳥取藩池田侯爵家の所有となっています。現在は日露戦争の英雄東郷平八郎元帥海軍大将が祀られています。

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穏田川に戻ります。二股に分かれた水車小屋跡があります。村越の水車と呼ばれていたそうです。葛飾北斎富嶽三十六景の穏田水車でしょうか。海抜は18.5m

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ここを過ぎるとキャットストリート明治通り外苑西通りをつなぐ道路とぶつかります。原宿橋と書かれた橋跡があります。この先は住宅地になり雰囲気は一変し、道は蛇行しながら進んで龍厳寺あたりで外苑西通りにぶつかります。この後穏田川は外苑西通り沿いに北上し水源である新宿御苑まで続くそうです。

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右折して前述の通りを外苑西通り方面に進みます。道は登り坂です。しばらくいくと左手に青山熊野神社があります。もともと紀州徳川家屋敷の鎮守であったものが移遷されたようです。葵の御紋もついています。神宮前、北青山の総鎮守です。海抜はあがって33.3mです。

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熊野神社の手前の脇道を入ると勢揃坂です。國學院高校脇のゆるやかで地味な坂道ですが、渋谷区に残る古道のひとつだそうです。後三年の役に奥州へ向かう八幡太郎義家がここで軍勢を揃えたとか。なんだかすごい話ですね。坂下(海抜24.9m)は霞ヶ丘アパートがありましたが東京五輪のために更地となっています。前回のオリンピックを前に作られた団地が今回のオリンピックで消えていくわけですね。

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 坂を下って外苑西通りを進むと仙壽院の交差点です。海抜は22.7m。すでにメイン競技場の建設が進んでいます。仙壽院は徳川家康側室お萬の方ゆかりの寺です。お萬は紀州徳川家頼宣水戸徳川家初代頼房の母になります。かつては穏田川を眺める高台で桜の名所でもあったそうですが廃仏毀釈や戦災で衰退、東京五輪に際しては墓苑の下を千駄ヶ谷トンネルが通るなどしています。

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仙壽院を過ぎて榎坂を上ると瑞円寺(海抜32m)、裏手には二股に分かれ間に祠のあるお万榎があったという榎稲荷があります。女陰に例えられ性器崇拝、性的信仰の対象となり内藤新宿あたりの遊女が拝みに来たと言われています。榎自体は戦災で焼失しています。

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榎稲荷の鳥居のある道を進むと鳩森八幡神社(海抜32m)があります。神亀年間に創建されたという由緒ある神社で瑞円寺が別当です。境内には千駄ヶ谷富士塚と呼ばれる富士見塚があります。また八幡神社裏手に将棋会館がある関係で境内には将棋堂もあります。

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鳩森八幡神社前の五叉路を千駄ヶ谷駅の方に向かうと右手に東京体育館が見えてきます。幕末こちらは徳川紀州下屋敷で明治に入って徳川宗家家達が静岡(駿府)知事解任後、天璋院とも住んでいた徳川屋敷があったそうです。海抜は32m程です。

渋谷から穏田川をたどりながら千駄ヶ谷まで歩いてきました。江戸の外れの川筋は今ではファッションストリートとなり、上流の千駄ヶ谷周辺は二度の東京五輪でまた街の形を変えようとしているわけですね。

 

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