東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

白金台をいく。

白金はプラチナではなく銀です。あ、港区白金の話です。応永年間(西暦1400年頃)白銀長者と呼ばれた南朝国司だった柳下上総介が当地を開墾し白金村を開いたそうです。当時の貨幣は銀ですから大金持ちといえば大量の銀を保有していたんでしょうね。

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いつのまにか白金はプラチナとなり外苑西通りはプラチナ通りと呼ばれ、白金台の驚安の殿堂ドンキホーテはプラチナカラーになっています。今日はそんな白金の町を歩きます。

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南北線白金高輪の駅(海抜10.8m)から桜田通りを五反田方面に進みます。右手の石垣がある高台にはちょっと前までは東京都職員白金住宅が立っていましたが現在は撤去工事中。何ができるのでしょうか。ちなみにこちらは織田安藝守大和柳本藩上屋敷でした。

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坂上清正公前の交差点です。海抜は16.1m。右折すると目黒通り、左に登る細い坂道は天神坂で以前歩いた旧東海道二本榎通りにぶつかります。直進すると五反田駅です。清正公とは加藤清正のことで、「せいしょうこう」と読みます。交差点にある覚林寺加藤清正の位牌が祀られています。

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覚林寺はもともと加藤清正文禄慶長の役李氏朝鮮から連れかえった日延(第14代宣祖の孫)の隠居所として開山されています。こちらは江戸初期は肥後熊本藩細川家中屋敷でした。加藤清正の所領であった熊本藩にその後入部したのが細川家ですのでその縁でこちらに祀られているようです。

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目黒通りを進みます。登り坂で日吉坂といいます。シェラトン都ホテル東京が左手に見えます。このあたりは江戸時代は寺町だったようですね。都ホテルとは反対側に正源寺は残っていますが江戸古地図に見える寺院はほとんどなくなっています。

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スパ白金の先が八芳園、見事な庭園がありますがこちらは松平薩摩守下屋敷(薩摩島津家)でした。ちなみに覚林寺裏手の松平丹波信濃松本藩)、九鬼長門摂津三田藩)の屋敷跡は今はヘボン式ローマ字で有名なヘボン夫妻が開設した英学塾が起源の明治学院になっています。八芳園側からも桑原坂を下ると明治学院に出ます。

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目黒通りの八芳園とは反対側には三光坂に降りていく脇道があります。海抜は27.6m。恵比寿のバス通りに降りて行く坂です。江戸古地図では三鈷坂と書かれています。三鈷とは両側が三又に分かれた密教で使う法具の金剛杵の一種です。坂入り口の左手は江戸時代は京極佐渡讃岐丸亀藩)、毛利左京亮長門長府藩)、分部若狭守近江国大溝藩)と武家屋敷が続いていました。

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毛利家の先を左に曲がると聖心女子学院、江戸時代は松平十郎麿石見国浜田藩越智松平家)屋敷跡です。私道の為立ち入りはできませんが大木の多い閑静なエリアです。敷地も広々としています。海抜も少し上がって29.6mあります。

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三光坂の傾斜が始まるあたりの右手には土塀に囲まれた邸宅があります。鬱蒼とした木々の間から洋館も見えます。土塀沿いに目黒通りに降りて行く坂道も趣があります。表札等はでていませんが元は旧服部ハウスと呼ばれた服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者服部金太郎の邸宅だったそうです。三光坂の坂下は専心寺西光寺などの寺町です。海抜は13.3m

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三光坂下を右手に進むと白金の鎮守氷川神社があります。海抜10.3mほど。祭神は素戔嗚尊境内社には稲荷神社と珍しく建武神社があります。南朝後醍醐天皇護良親王楠木正成ら忠臣が祀られています。氷川神社の前は伊達遠江下屋敷伊予宇和島藩伊達家)と交代寄合山崎主税助屋敷、裏手の三光坂沿いは上杉弾正少輔出羽国米沢藩)です。

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目黒通りに戻ります。日吉坂上(海抜29.3m)の信号の先、右手が白金台の駅で東京大学医科学研究所があります。江戸時代は松平阿波守阿波徳島藩蜂須賀家下屋敷です。伊予の松平と呼ばれた蜂須賀家は二代忠英が家康養女(信康の娘)と婚姻したことにより松平姓を許されていますが幕末の13代松平斉裕外様大名ながら将軍家斉22男です。

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東京大学医科学研究所は明治25年(1892年)ドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために福沢諭吉が私財を投じて作った大日本私立衛生会付属伝染病研究所が前身。その後内務省管轄から文部省管轄に移る際に東京大学に移管、合併されることに所長の北里らが反発し辞任。大正3年(1914年)北里は私費で北里研究所を設立しています。結核サナトリウムとして設立していた土筆ケ岡養生所をベースにしており先程の聖心女子学院の丘を挟んだすぐ裏手の古川沿いです。

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目黒通りの歩道橋を渡った反対側には瑞聖寺があります。江戸時代にはじまった日本では3つめの禅宗である黄檗宗の単立禅宗寺院です。入り口の印象よりも敷地は広く立派な寺院です。黄檗宗といえばインゲン豆を伝えたと言われる隠元隆琦が有名ですが、隠元の弟子木案(瑞聖寺開山)のもとで出家した青木重兼摂津国麻田藩)が開基となっています。青木重兼は仁和寺の造営奉行を務める中で隠元と知遇を得、その後黄檗宗萬福寺大宝殿の造営奉行も努めています。海抜は28.6m

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プラチナ通りを過ぎると右手には森が見えてきます。白金どんぐり公園の先が国立科学博物館付属自然教育園です。松平讃岐守屋敷跡(讃岐高松藩)です。こちらの松平家水戸徳川家2代光圀同母兄頼重の流れです。隣の敷地は東京都庭園美術館です。明治時代は陸軍火薬庫だったそうです。 f:id:tohrusampo:20180302185531j:imagef:id:tohrusampo:20180302185602j:image

首都高2号線が上を走る上大崎の交差点を直進すると目黒駅です。駅手前に高野山高福院誕生八幡神社があります。海抜は29mほど。近くに屋敷のあった松平讃岐守が讃岐ゆかりの空海の寺を建立したと説明書きにあります。誕生八幡は高福院別当です。目黒不動への参拝道としてこのあたりには茶店が並び賑わったようですが今日は目黒には抜けずに山手線沿いに白金に戻ります。

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並走していた山手線と埼京線が交差し、埼京線がトンネルに入る地点にある踏切が長者丸踏切です。海抜23.3m。このあたりの線路と首都高2号線に囲まれたエリアは長者丸と呼ばれていました。

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長者丸の高台は海抜30mほどで広大な敷地の豪邸や高級マンションが続きます。まさしく長者の屋敷街です。自然教育園の中には白金長者の屋敷跡もあるそうです。

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白金トンネルに近づいたところに長者丸の記念碑(海抜26.6m)があります。碑文によると呉服商吉田弥一郎(1857-1924)が高級住宅地として開発した邸宅地の碑です。白金長者が開拓した長者丸の地をさらに高級邸宅地として開発したわけですね。

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白金トンネル沿いの細道を下って信号を渡ると自然教育園の裏手に出ます。ここから古川方面への支流があったようです。今は海抜14.7mほどの日東坂下遊び場という公園になっていますが、ここから首都高沿いに暗渠らしい名残が残っています。

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プラチナ通りを曲がってガソリンスタンドのある信号の坂を左手に登ります。明治坂に続く登り坂です。坂上の路地を入ってしばらくいくと興禅寺。江戸古地図では光禅寺と書かれています。

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興禅寺の先には蜀江坂があります。聖心女子学院の裏手のレンガ壁沿いの気持ちのいい下り坂です。坂下は恵比寿バス通りで正面が北里病院になります。坂上の海抜は29.1mですが坂下は12.2mです。

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恵比寿三丁目方向に進みます。神応小学校前の信号(海抜9.8m)の細道を左に行くと階段があり雷神山児童遊園(海抜16.5m)があります。江戸古地図ではイナリと書かれていますが雷神山と呼ばれるこの丘に雷(いかづち)神社を作ったとあります。今は氷川神社の稲荷神になっているようです。

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右手に行くとおそらく先程の自然教育園からの白金支流と思われる暗渠が続き古川に合流します。こちらは江戸古地図では猩蕎麦と書かれています。明治初期まであった蕎麦屋だそうです。後に福沢諭吉が買い取り別荘地として使用したとか。現在は隣地の廣尾原と書かれたあたりを合わせて慶応義塾幼稚舎になっています。海抜は7mまで下がっています。

白金を歩いてきました。住所はすでに恵比寿。室町時代から長者の住む街は緑と坂の多い閑静な住宅地でした。

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