芝公園の謎をめぐる
芝公園というのは不思議な公園です。緑地帯全部が公園ではなく、むしろ緑地帯の周囲に点在しています。正式には25号地に分かれているそうです。中央に徳川家の菩提寺の芝増上寺。上下を西武グループのプリンスホテルの敷地が占めています。地図を詳しく見ると右下には古墳まであるようです。歴史を紐解くともともとは増上寺の広大な敷地だったものが明治維新や第二次世界大戦の戦災を経て現在に至っています。
まずは都心部では珍しい古墳にいってみます。都営三田線芝公園駅近くにある芝丸山古墳と呼ばれる小高い丘です。標高は22mほど。(麓は高度4m強)多少崩れてはいますが都内最大級の前方後円墳です。東南側の傾斜地は丸山貝塚という貝塚で地面をよく見ると貝殻が見つかります。(写真はアカニシとカキ類)縄文時代からここに生活があったことと、この高台の近くまで海だったことがわかります。
さてメインの増上寺へ向かいます。門前の日比谷通りはよくタクシーで通過していますが中に入るのは初めてです。せっかくなので大門まで戻って正面から歩いてみます。地下鉄の駅名にもなっている大門から108間で増上寺の三解脱門(三門)です。かなり立派です。朱塗りの建物に圧倒されます。国の重要文化財に指定されています。
中門をくぐると目の前に本堂と東京タワーの絶景が広がります。石段を上がってお参りすると本殿奥には黄金の阿弥陀如来像が見えます。浄土宗の寺院です。
本殿の右を抜けると徳川家霊廟があります。拝観料が500円かかりますが戦災で焼失する前の霊廟の絵葉書が10枚もらえます。写真の墓所門は焼失しなかった文昭院殿(家宣)霊廟の中門で旧国宝です。ここには2代将軍秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の霊廟があります。
驚いたことに本来の霊廟は隣の東京プリンスホテルやプリンスパークタワーの敷地にあったそうです。戦災により焼失し長らく荒廃したままの状況の中、所有者である徳川家が西武グループの国土計画に売却をしたそうです。現存していた台徳院殿(秀忠)霊廟惣門や有章院殿(家継)霊廟二天門(2018年1月現在修復中)はその名残で各ホテル前の日比谷通り沿いに建っています。猪瀬直樹『ミカドの肖像』にもありますが困窮した徳川家が手放した土地が今の複雑な芝公園の形になっているわけですね。なお本来の霊廟は学術調査の後、桐ヶ谷斎場で荼毘に付され現在地に改葬されているそうです。
戦災を免れた遺構がまだいくつか残っています。まずは御成門。増上寺の裏門で江戸城から近いため将軍家参拝門となりこの名前になっています。元々は現在の芝公園の外郭にあったため、今の日比谷通り御成門交差点付近に建っていたようです。また御成門前には北方馬場という馬場もあったそうです。
そして黒門。日比谷通り沿い三門の南にあります。傷みも激しいですが17世紀後半の建築です。僧侶の住居であった方丈の旧門で今の御成門交差点の芝公園4号地、御成門小学校あたりにあったようです。
台徳院殿の惣門のあるプリンスパークタワー東京の日比谷側通り側の歩行者用エントランスを過ぎると広々とした公園(ただしこちらは都立芝公園ではなく港区立芝公園)があります。日比谷通りを挟んだ緑地帯も芝公園のようです。明治6年増上寺敷地を含めた広域が芝公園として整備された後に、戦後日本国憲法制定により宗教団体への公金の支出が問題となり公園管理が難しくなった結果、今度は増上寺と公園が分離され今の芝公園の形になったようです。
芝東照宮に参拝、境内から裏の梅園に抜けるとスタート地点の古墳の麓に出ます。梅園の八重野梅を見ながら徳川家霊廟の数奇な運命に思いを馳せます。徳川家の菩提寺は明治維新を経て周囲の土地を奪われながら公園として整備されつつ、霊廟は徳川家の私有となっていたものが戦後の荒廃の中、西武グループに売却され薄皮餅のような芝公園跡が緑地帯の周囲にまだらに残ったということのようです。縄文時代から続くこの丘陵地の物語です。