東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

芝の旧海岸線を歩く

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今日は田町駅からスタート。高低差のない旧海岸線を歩きます。国道15号に日比谷通りが合流する三菱自動車の本社前に江戸開場西郷南洲勝海舟会見の地の石碑があります。海抜3.5m。ここは江戸時代の薩摩島津家蔵屋敷です。すぐ裏は芝浦の海浜で舟で上方や領内から物資が送られていたのでしょうか。

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古地図を見ると薩州クラヤシキの表記の近くに鹿島明神の表記があります。路地を入ってみると御穂鹿島神社がありました。確かにこの神社は山手線から見た記憶があります。当時はこのあたりは砂浜だったのでしょうか。今は本芝公園として整備されています。海抜は1.7mとかなり低いです。

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公園手前の線路際に雑魚場跡の碑があります。線路の下を通路が伸びています。明治の初め新橋横浜間の鉄道は海岸線に作られましたが当時からこの線路下を舟で通って芝エビなどを水揚げをしていたようです。かつては海浜だったわけですね。海抜1.2m

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1868年(慶応4年)前述のように薩摩蔵屋敷において江戸無血開城が決まりますが、本来であれば上屋敷で行われるべき対談がなぜ蔵屋敷で行われたのかというと、近くの江戸薩摩藩上屋敷は対談の前年幕府方の庄内藩兵に焼討ちされていたことによります。討幕の密勅大政奉還により延期となったことに端を発し、江戸では薩摩藩邸を中心に討幕運動を押さえることができずに、幕府方と騒乱となったわけですね。そのため上屋敷ではなく蔵屋敷での対談になったわけです。

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上屋敷跡も近くなので寄り道します。日比谷通り沿いのちょうどNEC本社とセレスティンホテルのあるあたりが薩摩藩島津家上屋敷でした。広大な敷地です。敷地跡には先程のNEC本社側に石碑とセレスティンホテル裏には芝さつまの道という説明施設が整備されています。海抜は4.2m

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案内板をみると日比谷通りから国道1号を挟んで慶応義塾の向こうの古川までのエリアは大名屋敷が集まっています。ちょうど慶応義塾大学の東門のあたりは三田四国町と呼ばれていたようです。本芝公園にあった弘化3年(1846年)の絵地図も参照するとこのあたりには松平阿波守中屋敷徳島藩蜂須賀家)松平土佐守中屋敷土佐藩山内家、屋敷はその後薩摩島津家に)、松平隠岐中屋敷伊予松山藩久松松平家)の四国の大名屋敷の名前が見えます。讃岐国の名前だけ見つかりません。三田同朋町の裏手(慶応仲通り商店街あたり?)に松平讃岐守屋敷があったのでは?とか讃岐国丸亀藩京極家の屋敷が虎ノ門に移る前が芝・三田だったとかいろいろ探してみましたが結論はでませんでした。

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芝の海岸線に戻ります。写真の芝4丁目の交差点(海抜2.8m)から先も海岸線でした。ちょうど薩摩藩邸からの水路があったようです。JRの敷地とトンネルをくぐった向こう側の敷地の一部が当時の海岸線。河口の両側に松平肥後守陣屋真田信濃守陣屋がありました。真田家は第六台場の防備のために間部下総守屋敷を払い下げられていたようです。両陣屋とも異国船への配備だったわけですね。いまではそのすぐ先に輸入車専門ディーラーのヤナセがあるのも意味深ですね。

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名所江戸百景:金杉橋

JRの敷地の内側の旧海岸線を平行に進みます。外側には元東芝本社がありますが一部は松平肥後守屋敷(会津松平家でした。金杉橋を渡ります。このあたりが古川(渋谷川)の河口でした。今も屋形船や釣り船屋が並んでいます。橋を渡った海側は芝新網町とよばれ明治時代には貧民屈と呼ばれるエリアでした。乞胸(ごうむね)や願人(がんにん)と呼ばれる大道芸を生業とした被差別民衆が住んでいたようですが今はまったくその面影はないです。四谷の谷を探す際に歩いた四谷鮫河橋(若葉町)同様、土地の高騰にともない貧民屈もなくなっていったようです。

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浜松町駅の脇を通り抜けます。駅の向こう側には旧芝離宮恩賜庭園があります。海抜は1mを切っています。老中大久保忠朝大久保加賀守・相模小田原藩)が家綱から拝領した庭園で、幕末は紀伊徳川家拝領地でしたが明治になって有栖川宮熾仁親王となっています。近くの大久保加賀守の屋敷跡は今は世界貿易センタービルになっています。文化放送の敷地は関但馬守(備中新見藩)、その奥は越中(播磨赤穂藩)の屋敷跡です。そのまま直進します。

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文化放送裏の路地を進むと区立エコプラザの脇に慶応義塾発祥の地の石碑があります。海抜は1.3m程度。実際はもう少し北側の今はマンション建築中のあたりで江戸時代は芝新銭座と呼ばれ銭貨鋳造所があったそうです。寛永通宝もここで作られていました。慶應義塾が三田に移転した後は攻玉社が引き継いだらしく、福沢諭吉攻玉社創始の近藤真琴の両創立者の記念碑になっています。

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線路を越えた海側の現在のイタリア公園のあたりには台場の砲台や韮川反射炉を手掛けた江川太郎左衛門江川英龍)の鉄砲調練場(所謂西洋流砲術)があって佐久間象山橋本左内桂小五郎などが学んでいました。また現在の汐留イタリア街区には松平肥後守会津松平家)の屋敷がありました。(しかしなぜにイタリアなんでしょう?)

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国道15号(東海道)に戻ってまた北上します。マッカーサー通り(環状2号線)との交差点に日比谷神社があります。海抜は3mほど。元々は日比谷公園の中にあったそうです。JRの高架をくぐって汐留側に出ます。日本テレビのあるあたりが松平陸奥仙台伊達家上屋敷跡です。日本テレビ北玄関に案内板があります。このあたりが表門だったようです。

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芝の海岸線散歩も間も無く終点、浜離宮を目指します。甲府藩主徳川綱重が拝領していましたが綱重の子綱豊が6代将軍家宣となったため甲府徳川家は絶家となります。以降は将軍家の浜御殿となり幕末には幕府海軍伝習屯所となっていました。江戸無血開城後、榎本武揚率いる幕府海軍はここから蝦夷地に渡り函館五稜郭で徹底抗戦することになります。石垣の門のところの海抜が3.5mです。

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珍しく高低差の少ない道のりを進んできました。慌ただしい異国船への対応や戊辰戦争など、幕末の動乱の跡が色濃く残る海岸線でした。

 

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