東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

西麻布広尾を歩く

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西麻布麻布十番の西側のエリアで六本木通り外苑西通りが交差しています。江戸時代には今は外苑西通り沿いの地下に暗渠となっている根津美術館梅窓院あたりを水源とする笄川(こうがいがわ)が南北に流れ、天現寺あたりで渋谷川(古川)に合流していたそうです。今でも笄坂、笄公園や笄小学校などの地名に残っています。今回は笄川をたどりながら西麻布、広尾の街を歩きます。

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海抜16.5mの西麻布の交差点から六本木通りを渋谷側に登る坂が笄坂です。すぐ左手の路地を入った笄川暗渠の通りを進みます。この道が川の流れだったそうです。

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最初の交差点の右側の坂が牛坂です。坂上30mまで高度が上がります。ここに笄橋が架かっていたようです。海抜は14.5m

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直進します。堀田坂と笄川暗渠と思われる道の二股に出ます。海抜は13m。坂の上には堀田備中守下総佐倉藩下屋敷がありました。今は緑豊かな広大な広尾ガーデンヒルズや日赤病院の敷地になっています。 

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二股の脇を左手に曲がり外苑西通りに出て笄川小学校西の信号を渡ったところの登り坂が鉄砲坂、その先も登り坂で北条坂です。かつては北條家屋敷の坂下には御先手組の居住地がありました。御先手組は江戸幕府の治安維持部隊であり鉄砲坂の由来はそこから。

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笄川に戻ります。広尾学園裏の堀田家屋敷跡の崖下を進みます。正面は聖心女子大学の敷地です。突き当たりの斜面右手に北門があります。聖心女子大学は旧久邇宮昭和天皇香淳皇后が幼少期ここで過ごしています。ちなみに今上天皇美智子皇后聖心女子大学出身です。江戸時代はこちらも下総国佐倉藩主堀田家下屋敷です。まさに広大な敷地です。

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暗渠に沿って外苑西通りに出ると日比谷線広尾駅です。(写真は外苑西通りから笄川の流れを振り返っています)この辺りの海抜は11mほど。このあと笄川は外苑西通りを蛇行しながら流れていました。広尾橋の信号を左に行くと有栖川公園、右手に行くと広尾商店街です。

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天現寺に向かって外苑西通りの左側にショッピングモールの広尾ガーデン広尾コンプレックスビルが続きます。笄川はこの辺りで蛇行しながら今の外苑西通りを渡っています。港区と渋谷区は笄川で区界が決められており隣同志でありながら広尾ガーデンは港区、広尾コンプレックスビルは渋谷区になっています。その先の天現寺は再び港区です。

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天現寺は臨済宗大徳寺派の寺院で多聞山天現寺多聞天すなわち毘沙門天を祀ります。海抜は9.9m慶応幼稚舎の手前で暗渠を進んできた笄川は天現寺橋のあたりで渋谷川に合流します。海抜は2.9mほど。やっと姿を見ることができました。ここから先は古川になります。ちなみに天現寺の先四の橋近くにあるのが光林寺。こちらは臨済宗妙心寺派の禅寺です。

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広尾駅に戻ります。天現寺橋の歩道橋を渡った都営住宅あたりは保科弾正忠の屋敷跡です。海抜8.6m明治屋が入った広尾プラザは堀田摂津守下屋敷下野佐野藩)。広尾商店街入り口の向かい側は有馬兵庫頭下野吹上藩)屋敷です。広尾商店街を進みます。

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突き当たりの祥雲寺手前の細道を右に入って行くと聖心女子大学の南門前(旧久邇宮邸の通用門)、祥雲寺突き当たりを左に行くと広尾五丁目の交差点ですぐ先を渋谷川が東西に流れます。

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今日は初めてまっすぐ進んで祥雲寺山門をくぐります。山門の海抜は12.4m。驚いたことにこの細い山門は車での通り抜けも可能で山門内の寺社域に複数の道路と寺院が建っています。敷地も広くかつては隣地の渋谷区立臨川小学校も祥雲寺の寺域だったそうです。

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正式名称は臨済宗大徳寺派瑞泉山祥雲寺といい筑前福岡藩黒田家菩提寺です。当初は赤坂溜池の黒田家中屋敷内にあったそうです。初代福岡藩黒田長政黒田官兵衛の嫡男)の墓があります。黒田家以外にも多くの大名墓地群があり林立した巨大な墓標に圧倒されます。墓苑の右奥は高台で高度も18.8mほどあります。

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明治通りに出ます。渋谷川はこの通りと並行します。祥雲寺の敷地と臨川小学校の間の道を進みます。道がクランクしていますが突き当たりは戸沢上総介下屋敷です。出羽国新庄藩で幕末期は奥羽越列藩同盟に参加しながら途中戦線離脱、逆に庄内藩に占領されたりもしてます。

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道なりに北上します。通称日赤通りは高級住宅街です。道の左手には時折急坂がでてきます。チェコ共和国大使館を過ぎてしばらく行くと右手に聖心女子大学の正門。お寺の山門のようです。道は日赤医療センター東京女学館と続きます。

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海抜30.4mの堀田坂へのT字路近くは商店街になりますが江戸時代は両側山口筑前常陸国牛久藩)屋敷、その先右手は仙石能登織田淡路守武家屋敷が続いてました。六本木ヒルズに移る前、JWAVEはこちらにありました。

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左手と六本木通りを越えた先骨董通りのあたりまでは高木主水正河内丹南藩下屋敷でした。高木町、主水町などと呼ばれていたそうですが今は字は違いますが首都高入り口の高樹町として残っています。町の由来名の看板がありました。

西麻布交差点への坂道が歩き始めの笄坂です。ぐるりと西麻布、広尾を歩いてきました。笄川と渋谷川で作られた低地と堀田備前守の広大な屋敷地の高台の緑の街でした。

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