六本木を一丁目から
南北線シリーズ。今日は六本木一丁目駅から六本木の街を歩いてみます。3番出口から出ると首都高谷町ジャンクションに出ます。首都高で作られた三角地点の頂点は六本木二丁目の信号です。海抜は12.1m。この辺りはかつては麻布谷町と呼ばれていましたが、谷町の名残りはこの空中にある首都高の合流点の名前だけです。三角点の頂点から右手高台の一丁目には道源寺坂が、左手高台の二丁目には南部坂があってまさに谷窪地です。外苑東通りを底辺とする三角形の土地が六本木三丁目になります。
現在は桜田通りに合流する麻布通りと首都高3号線下を走る六本木通りという2つの大通りが走っていますが江戸時代は道はなく武家屋敷や寺町、御先手組(江戸の治安維持部隊)などの番方の居住地となっていました。江戸古地図を見ながら残された寺院と旧坂を頼りに六本木の街を歩きます。
六本木一丁目は泉ガーデンタワーをはじめ住友不動産による再開発が進んでいます。スペイン大使館へと続くスペイン坂の一本裏の通りには西光寺、道源寺(古地図では通源寺)が残っています。道源寺坂と呼ばれるこの坂を登ります。右手は御先手組の居住地でした。坂下は12.8mですが坂上は25.5mあります。
坂を登って泉通りを左折して次を右折すると三谷坂。江戸時代は右手が阿部駿河守(上総佐貫藩)下屋敷、左手は松平大和守(武蔵国川越藩越前松平家)中屋敷でした。三谷坂の先のスペイン大使館やホテルオークラのある通りまでが六本木一丁目です。坂上の海抜は28mあります。
かつては大久保長門守(相模萩野山中藩)上屋敷だった泉屋博古館と泉ガーデンの庭園を過ぎると御組坂。この坂はかつては道源寺坂に続いていて坂下は御先手組の居住地で坂の名前はそこから。海抜は29.7m。
坂上の通りは直進すると突き当たりは以前歩いた我善坊谷に降りる坂になります。森ビルによる再開発が迫っているエリアです。御組坂を下ります。少し戻ったところに偏奇館跡があります。永井荷風の住居跡です。名前の由来はペンキ塗り二階建て木造洋館だったためだとか。代表作『濹東綺譚』の執筆もこちらだったようです。
偏奇館跡から南下すると角地に山形ホテル跡があります。こちらも永井荷風がよく食事や接客に使用していたホテルのようです。泉通りの突き当たりには日本国憲法草案審議の地がありました。連合軍総司令部と日本政府の間の議論がここで行われていたんですね。
麻布通りを渡って直進します。住所は六本木三丁目になります。右手の住友六本木グランドタワーにはテレビ東京が移転しています。すぐの長い下り坂はなだれ坂です。古地図にもある善學寺、圓林寺が坂の中腹に残っています。坂上の海抜は29.5mで坂下は14mまでさがります。
坂は降らず直進します。突き当たりを左に曲がると外苑東通りにぶつかります。右に降りていくと逆一方通行の寄席坂です。赤坂方面から麻布十番方面に抜ける際にタクシーでよく通ります。正面左手の坂は丹波谷坂。江戸時代は大御番組と呼ばれていたエリアです。大番(大御番)は江戸幕府の常備兵力である番方のひとつで、旗本を組織した直轄軍だそうです。丹波谷坂の次の坂を下ります。表示はありませんが坂下に不動院高野山真言宗があって不動坂と呼ばれています。
不動坂の突き当り、私有地のような細い路地の石段を抜けた先は海抜20mの窪地になっていて共同墓地があります。六本木墓苑という名前でかつての寺町にあった5つの寺院のお墓が再開発によりここに集められているようです。もともとこの場所は江戸古地図によれば祟厳(岸)寺跡になります。墓苑の案内に書かれた残り4寺はかつて六本木町(六本木交差点のあたり)に集まっていたようです。現在正信寺は現存していませんが他3寺院は現存しています。
通りを渡って饂飩坂の途中に教善寺、かつてはなかった六本木通りを渡った六本木七丁目誠志堂ビルの隣に光専寺、その裏手に深廣寺があります。深広寺前の外苑東通し沿いをを乃木坂方面に進むとミッドタウン前に斜めに下っていく道があります。国立新美術館に抜ける龍土町美術館通りです。江戸時代は竜土町という町屋でした。
通りの右手に天祖神社龍土神明宮があります。長徳寺神明社という神仏習合の寺社でした。天照大御神を祀っています。どういうわけか神社名の石碑はテレビ朝日寄贈、裏面に大きくテレビ朝日の文字があります。ちなみにこちらの住所は六本木七ー七ー七。縁起良さそうですね。海抜は28.3m。
星条旗通りにでると国立新美術館と政策研究大学院大学があります。江戸時代は伊達遠江守上屋敷です。こちらには旧日本陸軍駐屯地があった関係で敷地内には今は国立新美術館別館となっている麻布歩兵第三連隊兵舎跡(海抜30m)があります。
フェンスの向うには赤坂プレスセンターと呼ばれる在日米軍基地が広がっています。ヘリポートやガレージ、将校宿泊施設、米軍準機関紙である星条旗新聞があります。都心の一等地が接収されている状態が今も続いています。
入口に法庵寺がある星条旗通りの一本内側の道を進みつきあたりを左に進むと出雲大社東京分祀があります。階段を登った2階に鎮座しています。このあたりは江戸時代は松平石見守(三河国奥殿藩大給松平家)上屋敷です。海抜は30.8m。
六本木通りを渡ると六本木六丁目、六本木ヒルズになります。こちらは以前歩いたことがありますが毛利甲斐守上屋敷です。六本木ヒルズには行かずメトロハットの左脇の道を進みます。海抜は31.4m。江戸古地図では道の両側は御書院番組となっています。書院番とは大番と同じ番方のひとつで徳川将軍家の親衛隊的位置付けだそうです。大番に比べると防御任務を主としていたようです。
道を進むと芋洗坂に合流します。坂を下ると右側に朝日神社があります。海抜19.1m。祭神は倉稲魂大神とともに弁天様の市杵島姫大神が祀られています。湧水が多いエリアだったのでしょうか。
六本木中学を過ぎるとテレビ朝日のあるけやき坂下の交差点です。かつては日が窪町とよばれていたエリアです。左に曲がり鳥居坂下(海抜12.1m)から鳥居坂を登ります。住所は六本木五丁目になっています。
坂左手の京極壱岐守(讃岐国丸亀藩)上屋敷は明治に入ると公爵井上馨邸、久邇宮邸、昭和初期には岩崎小弥太邸となり現在は国際文化会館になっています。外壁の石垣が残って見事です。
鳥居坂の高台は明治大正期は華族や実業家の邸宅地でしたが今でも東洋英和女学院、日本銀行鳥居坂分館などがあり、六本木とは思えない閑静なエリアです。フィリピン大使館横、東洋英和裏の於多福坂(27.5m→13m)も二段構造のいい坂です。
坂上のロアビルのあたりは大久保加賀守(相模国小田原藩)下屋敷でした。海抜は28.5mまであがってきました。六本木交差点に戻って残る六本木四丁目と二丁目を歩きます。まずは六本木四丁目。麻布谷町へと降りていく市三坂の左手の高台(30.1m)です。市三坂は旧町名の麻布市兵衛町と麻布三河台町から来ています。三河台公園裏手には志賀直哉旧宅跡があります。道なりに坂を下ると以前歩いたアメリカ大使館職員宿舎。こちらの敷地が六本木二丁目の大半を占めます。久国神社を過ぎると南部坂。麻布谷町(海抜12m)に戻ってきました。
六本木の街をぐるりと歩いてきました。首都高や住友不動産や森ビルによる再開発ですっかり形は変えつつも古くからの寺社や墓地はひっそりと繁華街の中に残り、坂道は昔の面影を残しています。六本木は夜は気づかない昼の顔も持っているようです。