東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

外櫻田を歩く。

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今日は以前歩いた外濠の虎ノ門御門幸門御門の間にあった新シ橋のあたりから霞ヶ関方面に進みます。海抜は5.2m。江戸時代の古地図にも桝形の城門のない橋として描かれています。文字通り天下太平時代の新しい橋だったのでしょうか。新シ橋からまっすぐ日比谷公園の脇を通り霞ヶ関を抜け皇居方面にのびる道(写真)は現在の都道301号白山祝田田町線です。

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外濠と内堀(日比谷濠)に囲まれたエリアは外櫻とも呼ばれ、江戸時代は大名屋敷街でした。江戸古地図で見ると殆どの屋敷は家紋付きで表されており、これは参勤の際に武家が平常時の住まいとした上屋敷を意味しています。新シ橋を渡った左手は真田信濃信濃松代藩)、右手は亀井隠岐石見津和野藩)の上屋敷となっています。

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直進するとまもなく日比谷公園西幸門に出ます。こちらのあたりは北條相模守河内国狭山藩上屋敷。公園には入らずさらに直進します。公園の脇の歩道には石垣だったと思われる巨石がゴロゴロしています。

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霞門の信号を渡ると大岡越前守忠相の屋敷跡の碑があります。時代劇の南町奉行大岡越前ですね。TBS月曜20時の水戸黄門の枠で流れていました。大岡家はもともと旗本ですが吉宗の時代忠相の功績により西大平藩1万石の大名となり、明治維新まで続き子孫は子爵となっています。名町奉行と言われた大岡忠相の屋敷跡は現在は裁判所ではなく弁護士会になっています。

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日比谷公園に入ります。入って左手は内堀の方まで松平大膳大夫上屋敷。松平となっていますが長州藩毛利家です。中屋敷東京ミッドタウンにありました。公園内の松本楼近くの池にかかる石橋はもともと芝増上寺の御成門付近にあった橋が移築されているそうです。公園内を内堀(日比谷濠)方面に進みます。

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心字池の先に伊達政宗終焉の地の案内板があります。案内板によると慶長六年(1601年)から寛文元年(1661年)まで伊達政宗から三代綱宗の時代までここに伊達家の屋敷があったそうです。幕末には桜田御用屋敷が置かれ将軍逝去後の大奥の隠居所となっていたそうです。平坦な外櫻田もこのあたりは海抜2.6mと低くなっています。

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心字池の先には石垣があって公園入り口には日比谷見附跡があります。海抜は1.3m、裏手から階段で石垣の上に登れるようになっています。石垣上は海抜は5mほどですが眺望もよく日比谷濠も一望できます。

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おそらく心字池は濠跡で今立っているあたりは松平土佐守土佐藩山内家)や松平阿波守阿波国徳島藩蜂須賀家中屋敷跡でした。今では石垣越しにオープン間近の東京ミッドタウン日比谷がそびえ立ちます。

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日比谷公園の噴水付近は松平肥前上屋敷跡。肥前国佐賀藩主鍋島家です。幕末藩主鍋島斉正(直正) は将軍家斉から松平姓を与えられています。正室も家斉18女です。右手に見える帝国ホテルのあたりは阿部播磨守陸奥白河藩上屋敷で突き当たりのJRのガード下あたりには山下御門がありました。海抜は2.2mほど。

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現在はガード下に山下門の見附橋だった山下橋の案内板と架橋の名前に名残があります。寛永13年(1636年)肥後熊本藩主細川忠利によって構築されましたが明治七年に撤去されたそうです。江戸城門の中では最小だったとのこと。

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JRガード下をくぐり首都高沿いを進みます。道はカーブしています。外濠の跡でしょうか。左側の建物あたりは松平主殿頭肥前島原藩深溝松平家上屋敷でした。明治大学発祥の地だそうです。明治14年の出来事です。ちなみに三田の松平主殿頭中屋敷慶応義塾になっています。面白い偶然ですね。

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晴海通りとの交差点が数寄屋橋交差点。現在は首都高とその下の西銀座デパート、地下には丸ノ内線そして晴海通りという大通りが走っていますが江戸時代は数寄屋橋御門があったそうです。海抜は3.8mです。

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有楽町マリオンの間を抜けて有楽町駅前に進みます。有楽町イトシア前の広場に南町奉行所がありました。大岡越前上屋敷とはこの距離感、通勤には程よい感じでしょうか。海抜は2.7m

町奉行とは寺社奉行勘定奉行とともに三奉行とも呼ばれた重職で、江戸の警察、司法、行政の一部を担当していました。北町、南町は管轄エリアによるものではなく1ヶ月交代の月番制だったそうです。

因みに町奉行といえば桜吹雪の「遠山の金さん」ですが彼も忠相同様実在の人物です。ちなみにモデルとなった天保期の旗本遠山左衛門尉景元(金四郎)は北町奉行南町奉行も歴任しています。江戸町人の評判も良かったようです。

少し離れますが町奉行所跡は東京駅八重洲北口近くにあります。北と南というほど離れていません。月番制に納得です。

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山手線のガードを超えて東京国際フォーラムの脇を通って日比谷濠に戻ります。日比谷濠の海抜は1.3mです。東京国際フォーラムには先程の日比谷御門にあった松平阿波守と松平土佐守の上屋敷がこちらも並んでいました。濠沿いを進み祝田橋(海抜4.9m)を渡ると皇居前広場です。

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皇居ランナーのコースを逆行して進むと桜田門を内側から抜ける感じになります。枡形の石垣手前側に渡櫓門、外側の濠に面した側に高麗門があります。海抜は7mあります。内堀のうち桜田門の右手側が桜田、左手祝田橋方向の濠が凱旋濠(海抜2.8m)と呼ばれています。

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門を出て橋を渡ると桜田門の交差点です。大老井伊直弼が殺害された桜田門外の変はこちらで起きています。そちらの話はまた別の機会に。桜田通り左手にある洋館は明治時代の建築物法務省赤煉瓦棟です。江戸時代の上杉弾正大弼米沢藩上杉家)の上屋敷跡でした。上杉家はもともと鎌倉第6代将軍宗尊親王後嵯峨天皇第一皇子)とともに関東に下向した公家の藤原重房が上杉姓を名乗り武家化、足利家との婚姻関係を強め室町時代には関東管領、有力守護大名として越後、上野、武蔵、相模を治め、戦国時代には上杉謙信関ヶ原後は米沢藩に移転、減封。江戸時代には上杉鷹山などがでています。

桜田通りを直進すると虎ノ門御門です。江戸城に近い大名屋敷街である外櫻田エリアは大岡越前の通勤路でもあり、現在では霞ヶ関の官庁街と緑豊かな日比谷公園、濠の水面や濠跡の残るエリアでした。

 

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