東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

乃木坂はあるが赤坂はない。

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前回に続いて赤坂の街。港区立赤坂小学校と赤坂中学校が赤坂通りを隔てて建っています。中学は崖上です。乃木坂駅方向に向かってジャニーズ事務所の手前に右に登る坂があります。

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こちらはパウロ女子修道会の私道です。江戸時代は大名屋敷で毛利淡路守周防徳山藩毛利家)の屋敷だったようです。高台に樹木が茂っています。聖パウロ修道会は社会的コミュニケーション手段(放送や出版等のメディア)を用いてキリストの言葉を広く伝えることを使命としてに設立されていて、女子修道会はその兄妹会。文化放送JOQRの設立も行い現在も筆頭株主だとか。知らなかった。

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続く乃木神社朽木近江守屋敷跡丹波福知山藩)です。陸軍大将であり学習院の院長でもあり明治天皇崩御に際し静子夫人とともに殉死した乃木希典の住居があったところ。現在住居跡は乃木公園となり乃木邸も保存され、乃木希典は神として隣の敷地の乃木神社に祀られています。夏目漱石の『こころ』の題材にもなっています。

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地下鉄乃木坂駅の目の前を走る赤坂通りが乃木坂です。今は乃木坂といえば希典でも神社でもなく乃木坂46なんでしょうね。ソニーミュージックエンターテイメント乃木坂ビルがすぐ近くにあります。

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赤坂方面に戻ってすぐ右の細い道を進みます。生長の家所有の「赤坂いのちの樹林」という公園脇の細い階段を登ると東京ミッドタウンの裏手に出ます。ここは松平大膳大夫安芸長州藩毛利家の広大な屋敷跡です。明治に入り陸軍歩兵第1連隊駐屯地、戦後アメリカ軍による接収を経て、僕らの世代的には防衛庁の跡地としての記憶があります。ジョージの店が懐かしいです。

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檜町公園脇の檜坂を登り突き当たりの一方通行を左折します。道は下ってアメリカ大使館職員宿舎の正門にぶつかります。護衛の方がいます。もちろん入れません。こちらも相馬大膳亮屋敷陸奥中村藩相馬家)真田信濃中屋敷信濃松代藩真田家)を合わせた広大な高台の土地です。

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左手に石垣に沿って登ると赤坂氷川神社ですが右に沿って進みます。ぐるりと回ると右手に六本木通りが見えてきます。そこからまっすぐ続く登り坂がなだれ坂です。写真は坂上から撮ったところです。この辺りはかつては麻布谷町と呼ばれたあたりで現在は住友不動産により土地開発がされています。六本木グランドタワーには神谷町からテレビ東京が移ってきています。首都高の谷町ジャンクションという名前に麻布谷町の名残があるのみです。

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アメリカ大使館職員宿舎裏の小道に戻ります。左手の久国神社を過ぎてしばらく行くと南部坂です。石垣沿いに登ると洋食屋の津津井があります。昔はTBSのすぐ脇にありました。右手に曲がってしばらく行くと道は下り坂。その先はこれまた広大な筑前国福岡藩黒田家屋敷跡です。鴨池という広い池もあったらしく現在低地に広々と残る駐車場がその跡かもしれません。

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また戻って石垣沿いに進みます。右手に森が見えてきます。赤坂エリアの氏神様である赤坂氷川神社です。祭神は素盞嗚尊。表参道は右手に入った氷川坂からのようです。徳川吉宗が造営した社殿が現在も残っています。木立に囲まれ鬱蒼としており同じ赤坂の日枝山王神社と比べると雰囲気が違います。

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氷川坂を下って転坂を登ると赤坂氷川公園に出ます。突き当たりの白いお城のあたりからの高台一帯は江戸時代の相良越前守屋敷跡(肥後人吉藩相良家)です。維新後天璋院篤姫)がしばらくの間ここに身を寄せていました。なお徳川16代徳川家達廃藩置県の後に静岡藩知事を免職となり一時期一緒に住んだようで、その後千駄ヶ谷の徳川邸へ移り天璋院はそこでなくなっています。現在の東京体育館のあたりです。

赤坂の街をぐるりと歩いてきました。たくさんの坂と出会いましたが赤坂と言う名の坂はありません。タイトル通り同じ千代田線の駅でも乃木坂はあっても赤坂はないのです。

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赤坂の坂を探す(Akasakasakas)

赤坂はその名前の通り坂の街です。江戸時代からの大名屋敷町で古くからの坂があちこちにあります。溜池山王から乃木坂トンネルへ続く赤坂通りの左右に高台が形成されていて複雑な地形になっています。今回は職場近くのTBSから歩いてみます。

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Akasakasakasと名付けられたTBS社屋一帯は江戸時代の松平安芸守屋敷跡。安芸広島藩浅野家です。2代光晟の母が家康三女振姫だったため松平姓を許されています。忠臣蔵播磨国赤穂藩浅野長矩は分家になります。TBSに正門から入るとオールスター感謝祭のマラソンコースになっている心臓破りの坂道が出てきます。社屋でいうと1階から4階まであがる高さになります。海抜13mから27m。坂上にあがるエレベータもついていて関係者以外も利用できます。

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坂上のT字路の信号を左におれると道がクランクしています。赤坂通りにつながる三分坂です。かなりな急こう配です。坂道麓の報土寺には雷電為右衛門のお墓があります。三分坂上が29.4m赤坂通り12.8mです。

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三分坂から戻ってTBS坂上の信号を右に行くとまた右手に急坂がでてきます。円通寺です。坂上は海抜29.7m。こちらは一ツ木通りにぶつかります。円通寺坂の途中に見過ごしがちな石柱が埋まっています。かろうじて陸軍省所轄と読めます。戦前TBSのある一帯は近衛師団歩兵第三連隊の駐屯地だったようです。近衛師団とは最新鋭のエリート集団で天皇および宮城の警衛のために組織されていました。また東京ミッドタウンには陸軍第一歩兵連隊、国立新美術館には陸軍歩兵第三連隊が置かれていました。大名屋敷から軍隊の街に変わっていたんですね。

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円通寺通りから一本入ると丹後坂という階段の坂があります。そのまま直進すると牛鳴坂。坂を下ると青山通りに出てしまうので登ります。

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左手に山脇学園が出てきますがその角に立派な武家屋敷門が突如現れます。案内板によると江戸城東廊八重洲大名小路にあった老中方屋敷表門だそうで重要文化財三河国岡崎藩本多美濃守忠民による再建とのこと。

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そのまま直進すると右手に弾正坂という坂が出てきます。坂上28mですが坂下は14m青山通りをこえて赤坂御用地豊川稲荷の間を抜けていく坂道です。江戸時代の古地図には坂の左側に松平左兵衛督屋敷があります。鷹司松平家上野国吉井藩松平家)屋敷で坂の名前の由来は第7代松平信敬が弾正大弼になっていたことによるものと思われます。鷹司松平家五摂家のひとつである鷹司家庶子鷹司信平が実姉の徳川家光正室孝子を頼って公家から武家(旗本)に転身したことにはじまります。4代家綱の配慮で紀州徳川家の娘を娶り松平姓を許されています。2代のち信清が初代吉井藩主となり大名家となっています。

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左手に見えてくる赤坂ガーデンシティとパークコート赤坂ザタワーの敷地を抜けると赤坂の谷地が一望できます。目の前の谷地は黒鍬谷(海抜12m)と呼ばれていました。黒鍬とは江戸時代の五役(黒鍬之者、御駕籠之者、御掃除之者、御中間、御小人)といわれる職制のひとつで江戸城内の土木作業や草履取り等の雑事に従事していた集団だそうです。

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赤坂ザ・タワーの敷地を抜けると薬研坂に出ます。薬研とは漢方薬などをひく道具。よく昔の時代劇でコロコロ転がしていたアレです。V字型に両側から下るこの2つの坂を合わせて薬研坂と呼んでいます。円通寺側が29.5m青山通り側が28.5m、薬研の底が21mです。緩やかに湾曲しています。

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青山通りに出て左手に進むとすぐに高橋是清記念公園があります。江戸時代は青山備前守屋敷跡だったところです。第20代内閣総理大臣高橋是清の邸宅がここにあり226事件ではこの邸宅にいるところを青年将校たちに襲撃されています。赤坂の近衛師団歩兵第3連隊が襲撃に加わっていました。この距離感だったわけですね。海抜は30.6mの高台です。

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隣地のカナダ大使館脇を左手に入ると新坂です。江戸古地図では「志んサカ」と書かれています。坂を下り切ると道はカーブを描きます。坂上32mで写真の湾曲している辺りで16mです。

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赤坂で有名な珉珉という餃子屋さんがあるあたりです。ちなみに酢と胡椒でいただきます。醤油とラー油は禁止です(笑)

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しばらく行くと左手に稲荷坂があります。坂の登り口の左手に円通寺稲荷があったことに由来する名前のようです。ここを登ると先程の薬研坂円通寺坂よりに出て、そこから降ると黒鍬谷、ちなみにその下り坂の名前も稲荷坂でこちらの脇にも別の稲荷社があります。最初の稲荷坂の両側は御掃除之者の組屋敷があったようです。江戸城内の御殿の清掃に従事していた集団です。

さて、再び道なりに進むと赤坂通りの赤坂小学校前に出ます。海抜は14m程度。溜池山王方面に向かうと再びTBSです。

赤坂通りからの三分坂一ツ木通りからの円通寺坂、そして青山通りからの薬研坂。この3つの坂が形成した谷山が歴史を辿ると安芸浅野家屋敷であり、近衛師団第3連隊駐屯地でありTBSでした。ちなみにAkasakasakasを逆から読むと坂坂坂になっているそうです。

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池田山と島津山の松平家を探る

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五反田は有楽街の印象が強いですが桜田通りを境に池田山島津山という2つの高台に高級邸宅地があります。ともに江戸時代の大名屋敷跡です。江戸古地図を見ると五反田は江戸の外れで目黒川に削られた崖上の高台に屋敷があるものの田んぼや畑の表示が目立ちます。国道1号と思われる道も高輪台から先にはまだなかったようです。まずは雉子宮と書かれた神社を目指します。

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雉子神社は海抜3.1m五反田駅から桜田通りを少し登った右手にあります。国道1号沿いに鳥居がありますが階段を登るとビルの中に社殿があります。徳川家光が鷹狩りの際に訪れていたようで葵の御門があります。主祭神日本武尊。海抜は23m

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そのまま国道1号の坂を登りきると高輪台の交差点に出ます。6叉路の複雑な交差点です。海抜28.8mとかなり高いです。一番右寄りの道を行くと以前歩いた旧東海道二本榎通りにぶつかります。今回は信号を渡って国道1号の一本左の小道を進んでみます。

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しばらくいくと数メートル程度の段差の階段があって脇に三田用水路跡の案内板がありました。渋谷川(古川)と目黒川の間であるこの高台の尾根沿いに水路を通して目黒、大崎、白金、高輪、三田といった地域に玉川上水を分水して供給していたようです。海抜は29m

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直進して芝白金団地を過ぎて目黒通りには出ずに五反田方面に戻ろうとすると寺町に入ります。四角い高台の土地に浄土宗の寺院が集まっています。江戸古地図によると芝増上寺下屋敷となっています。行き止まりの多いこの崖上の一角にたくさんの寺院が集まっていて興味深いです。福沢諭吉墓所もありました。写真のお寺の案内標識の高度が30mです。

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寺町を下ると低地の窪地に出ます。NTT東日本関東病院のある窪地です。海抜約10m。関東病院に向かって右の坂を上がると池田山公園があります。古地図では松平内蔵頭の広大な屋敷になっていますが、備前岡山藩池田家屋敷です。姫路城で有名な播磨国姫路藩池田輝政徳川家康次女督姫と婚姻、その子池田忠継が初代岡山藩主となって松平姓を許されていたようです。ややこしいですね。池を臨む写真の公園の高台が24.8m。池田山自体の最高点は30mで谷向こうの寺町とほぼ同じ高さです。

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池田山公園から先の高台は瀟洒な邸宅地で区画整理されたお屋敷が並びます。美智子皇后の実家正田邸があったことでも有名です。今はねむの木公園になっています。関東病院の窪地の池田山とは反対側の崖上も、古地図によれば江戸時代は豊後国森藩久留島信濃下屋敷肥後国宇土藩細川山城守屋敷です。前者は畠山記念館(海抜27m)、後者は頌栄女子学院28m)の敷地になっています。頌栄女子の小道を桜田通りに抜けると正面に袖ヶ崎神社、右手が了真寺という禅寺になります。

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五反田駅に戻って今度は島津山に向かいます。ソニー通りと平行に二本奥に入ると左側が崖になっています。ここが島津山と呼ばれる丘陵です。江戸古地図では松平陸奥となっていますが仙台藩伊達家屋敷跡です。家康六男忠輝の岳父であったため松平姓を許されていたようですがこちらもわかりにくいですね。

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伊達家屋敷は明治に入って島津子爵邸宅となります。島津山の名前はそこから。伊達家が官軍であればこの山は伊達山と呼ばれていたかもです。現在は清泉女子大学になっていて海抜15.9mの清泉女子大学入口から先に進んだ高台(海抜24.5m)はまさに高級邸宅街。

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島津山の両サイドはかなりの勾配があって左右に複数の踊り場のあるまっすぐな階段があります。高低差フェチにはたまりませんね。

五反田の2つの山を歩いてみました。松平の称号を許された池田家と伊達家の大名屋敷の名残りが感じられる高級邸宅地でした。

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神谷町の谷を探る

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神谷町愛宕山の西側にそった窪地で、現在は虎ノ門5丁目となり町の名前は消滅しています。東京タワーの最寄駅としての日比谷線の駅名と交差点名、そして僕らの世代的には最近まで近くにあったテレビ東京の呼称として残っています。なお江戸初期はこのあたりいったいは西久保と呼ばれていたようです。

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まずは愛宕山を目指します。神谷町の交差点を北上して最初の信号を右折、愛宕トンネルをくぐってその先を左折すると愛宕神社の階段があります。出世の石段と呼ばれる86段の急階段です。愛宕神社のある愛宕山は東京23区内の自然山としては最高峰で海抜25.7m。階段下が4.6mとかなのでかなりの急こう配です。足腰に自信がない方は愛宕トンネルわきにエレベータがあるのでそちらを。愛宕神社の祭神は火産霊命。江戸を大火から守る為に祀られています。防火防災の神様です。

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参拝して芝増上寺方面に歩きます。愛宕ヒルズの敷地内のような場所に立派な山門の禅寺があります。曹洞宗萬年山青松寺泉岳寺と同様江戸三箇寺のひとつ。山門の中には四天王像がガラスケースで囲われています。

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歩道橋を渡って現在は正則高校と私立芝中学・高校になっている江戸時代からある切通の崖沿いに進みます。つきあたりのオランダ大使館はかつての駿河沼津藩水野出羽守屋敷跡オランダ大使館の隣には芝給水所があって屋上が公園として整備されサッカー場もあります。ここには半地下の「配水池」があって8万立方メートルの貯水能力で災害時に備えているそうです。都内にはこうした給水施設が200か所ほどあるらしいです。

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つきあたりは東京タワーへの坂道となる永井坂。麓の臨済宗金地禅院以心(金地院)崇伝創建のお寺。高校日本史で出てきましたよね。禁中並公家諸法度を起草した人でしたっけ。

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永井坂を下って麻布台一丁目交差点手前に西久保八幡神社があります。先に書きましたがもともと神谷町一帯は西久保と呼ばれていました。愛宕神社の西の窪(久保)地という意味でしょうか。西久保の地名が唯一ここに残っています。境内は高台で海抜22m。階段をあがると社殿があります。崇徳院(秀忠正室)が関ヶ原の戦勝を願って社殿を造営したと言われています。江戸時代は八幡山普門院という天台宗の寺院で神仏分離の結果現在の八幡様になったようです。境内裏手には貝塚もあったらしく西久保八幡貝塚の史跡案内板がありました。前に歩いた芝丸山貝塚や伊皿子貝塚同様武蔵野台地東端のこのエリアは、古代には海岸線がすぐ近くまで来ていた証拠です。

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飯倉へ戻って今度は外苑東通りを六本木方面に進みます。飯倉もかなり高台で神谷町側も赤羽橋側も坂道ですが六本木方面も緩やかな登り。ちょうどロシア大使館あたりが一番高いようで高度は28m愛宕山を超えています。

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麻布側に下る坂が何本かありますが皆急坂です。尾根伝いの道のようです。飯倉片町の交差点を右折します。港区立麻布小学校がありますがここは明治時代は紀州徳川家の邸宅だったそうです。維新後も残っていたんですね。ちなみに江戸時代は出羽国米沢新田藩上杉駿河守屋敷跡。米沢上杉家の支藩で麻布上杉家と呼ばれています。ちなみに隣地の麻布郵便局あたりは上杉弾正大弼(米沢上杉家本家)中屋敷でした。

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国道脇の行合坂を下り谷底で右折して落合坂に入ると外苑東通りと並行した崖下の窪地に入っていきます。魚の骨のような形の道で左右の路地はすぐ両側の崖につきあたります。背骨にあたる道が神谷町方面に進んでいます。我善坊谷と呼ばれる谷地です。江戸時代の古地図を見ると御先手組と呼ばれる江戸城各門の警備や将軍外出時の警護、治安維持にあたった人々の居住地だったようです。現在では人の気配もなく時間が止まっているかのような印象を受けるのは森ビルによる再開発へ向けて立ち退きが進んでいるからのようです。

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谷地のほぼ真ん中に左右に登り坂。右手が三年坂になる道、巨大な霊友会釈迦殿の裏手に繋がります。左手は我善坊谷坂。写真はそれぞれの坂側から我善坊谷方向を見ています。

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我善坊谷坂を登ると仙石山但馬出石藩仙石家の屋敷跡です。高台で開けているので東京タワーが映えます。このエリアは江戸時代は大名屋敷でしたが森ビルによる再開発が進んで真新しい高層オフィスビルと住居棟が立ち並んでいます。城山ガーデンとの間の緑道を下ると神谷町の駅に戻ります。

神様の住む愛宕山の西の谷町は森ビルに開発された愛宕山、仙石山、城山に囲まれた谷地でした。ひっそりと残った我善坊谷もまもなく姿を変えようとしています。

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三田高輪の台地を探る

甲州街道四谷大木戸からはじまって四谷の谷探しをはじめましたが、東海道にも高輪大木戸という所謂関所があったそうで、今回はそこから高低差の旅に出てみようと思います。

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高輪大木戸跡は国道15号沿い田町と品川駅の間、都営浅草線泉岳寺駅近くの歩道にあります。若干車道に出っ張った形に石垣の土塁跡があり歩道がぐるりと迂回しています。江戸時代には道の両側にこうした石垣があり木製の扉が開閉されていたらしく、現在JR山手線の新駅を建設中の海側の広大な敷地はもともと海浜だったようです。大木戸の海抜は3.7m

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なお高輪大木戸より100年ほど前の江戸初期には少し田町方面に戻った今の札の辻あたりに芝口門という門があり、そこに高札が建てられ江戸の玄関になっていたそうです。札の辻の由来も高札場だったからのようです。江戸初期はここが江戸の南端だったんですね。札の辻の三角点の高度が4.3m

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札の辻から品川方面を臨むと右側が丘陵地になっていることがわかります。右手の芝桜が綺麗な赤い住友不動産のビルの裏手はかなり険しい崖で住民のためにエレベータが設置されています。(写真左の塔)ビルの入り口の海抜が4mに対して崖上は28mもあります。崖上の右手の坂道は聖坂高輪台方面の突き当たりに高野山東京別院があるからでしょうか。道の両脇に寺院が続きます。浄土宗系の寺町のようです。

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歌川広重「江戸名所百景」月乃岬

しばらく品川方面に進むと左手に趣のある土塀に囲まれた亀塚公園が出てきます。伏見宮から分かれた旧宮家華頂宮邸宅跡です。このあたりの高台は眺望もよく「月の岬」と呼ばれていたそうです。ここからも東海道沿いの御田八幡に降りていける急階段があります。亀塚公園に続いて三田台公園があります。ここも含めて華頂宮邸宅だったようです。屋敷内にあったと思われる井戸が残っています。なお園内には貝塚面が保存されています。近くの伊皿子貝塚(ちょうど崖下のNTTデータビルあたり)から出土した貝塚面です。(2018年1月時点は工事中)

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伊皿子坂東海道方面に下る途中にあるのが忠臣蔵で有名な泉岳寺。海抜は10.6m。曹洞宗の寺院で江戸三箇寺の一つですが浅野長矩赤穂浪士四十七士の墓所があることで有名です。山鹿流陣太鼓がシンボルの土産物屋さんがいい感じを出しています。山鹿素行は江戸時代の儒学者朱子学を批判したこと赤穂藩にお預けとなっていましたが、本来の武士の在り方「士道」を追求していました。討ち入りもそうした思想、道徳観念が影響しているようですね。

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東海道品川宿方面に進みます。なぜか聖徳太子まで祀られている高輪神社を過ぎると高輪二丁目のT字路にでます。高輪海岸の石積み跡が残っています。ここから東側も海浜だった証です。現在の海抜は4m

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高輪台方面に伸びる坂が桂坂、江戸時代の桂坂は高輪二丁目の信号から直進せず今も残る泉岳寺よりの小道から入ってクランクしていたようですね。途中の高野山東京別院の手前からも昔の桂坂と思える脇道があります。桂坂を登りきると高輪のシンボルとも言える高輪消防署二本榎出張所です。灯台のような構造の鉄筋コンクリート3階建ての近代建築です。高度は28mあるので見晴らしは良かったのでしょう。直進すると明治学院前の桜田通りに出ますが、右折して伊皿子坂の方に戻ります。この道は二本榎と呼ばれ東海道と並行してつづいていました。こちらが旧東海道鎌倉街道下道)なのではとも言われています。

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伊皿子坂交差点の手前の左側は江戸時代の古地図によると肥後熊本藩細川越中守屋敷跡、現在は高輪アパートと区立高松中学そして高輪皇族邸宅になっています。討ち入り後大石蔵之助ら17名は沙汰が出るまでここ熊本藩細川綱利下屋敷にお預けとなりました。綱利は助命嘆願や愛宕神社への祈願等をしていますが翌年切腹の沙汰となり屋敷内の庭で介錯しています。家臣たちにもその庭を残すように命じたと言われていますが現在も高輪アパート敷地裏手にひっそりと残されています。

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同じ屋敷跡に建っているのが高輪皇族邸昭和天皇も皇太子時代住んでいたそうで、その後弟の高松宮夫妻が住まわれていましたが今は無人。近くの区立中学が高松中学なのはその縁のようです。なお今上天皇が退位された後はこちらに住まわれると言われています。隣の松島屋の豆大福は昭和天皇が贔屓していたことで有名です。伊皿子坂(海抜23m)を左に曲がると魚籃寺のある魚籃坂です。

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魚藍坂下(海抜8m)が国道1号との交差点になり右折してまっすぐ進むと慶應義塾にぶつかります。右側は三田寺町と呼ばれる寺町が続きます。江戸城拡張に伴い八丁堀の寺社が芝、三田に移転させられたためのようです。長松寺には儒学者荻生徂徠の墓があります。赤穂浪士たちの沙汰について心情論はさておき法治国家として切腹を進言したと言われています。泉岳寺切腹した細川家下屋敷からもそれほど離れていない寺に荻生徂徠のお墓があるのも不思議な縁な気がします。

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ちなみに突き当たりの慶應義塾大学の裏手は伊予国松山藩松平隠岐中屋敷大石主税堀部安兵衛ら10名が切腹させられています。現在はイタリア大使館になっていて立ち入ることができません。慶応仲通りを抜けてJR田町駅手前に三河岡崎藩水野堅物屋敷跡があります。ここでも赤穂浪士9人が切腹しています。※残り10名は毛利甲斐守屋敷(今の六本木ヒルズ毛利庭園)で亡くなっています。

そろそろ三田高輪の高台の散策を終えます。赤穂浪士の影が色濃く残った丘陵地でした。

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芝公園の謎をめぐる

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 芝公園というのは不思議な公園です。緑地帯全部が公園ではなく、むしろ緑地帯の周囲に点在しています。正式には25号地に分かれているそうです。中央に徳川家の菩提寺の芝増上寺。上下を西武グループプリンスホテルの敷地が占めています。地図を詳しく見ると右下には古墳まであるようです。歴史を紐解くともともとは増上寺の広大な敷地だったものが明治維新第二次世界大戦の戦災を経て現在に至っています。

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まずは都心部では珍しい古墳にいってみます。都営三田線芝公園駅近くにある芝丸山古墳と呼ばれる小高い丘です。標高は22mほど。(麓は高度4m強)多少崩れてはいますが都内最大級の前方後円墳です。東南側の傾斜地は丸山貝塚という貝塚で地面をよく見ると貝殻が見つかります。(写真はアカニシとカキ類)縄文時代からここに生活があったことと、この高台の近くまで海だったことがわかります。

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さてメインの増上寺へ向かいます。門前の日比谷通りはよくタクシーで通過していますが中に入るのは初めてです。せっかくなので大門まで戻って正面から歩いてみます。地下鉄の駅名にもなっている大門から108間で増上寺の三解脱門(三門)です。かなり立派です。朱塗りの建物に圧倒されます。国の重要文化財に指定されています。

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中門をくぐると目の前に本堂と東京タワーの絶景が広がります。石段を上がってお参りすると本殿奥には黄金の阿弥陀如来像が見えます。浄土宗の寺院です。

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本殿の右を抜けると徳川家霊廟があります。拝観料が500円かかりますが戦災で焼失する前の霊廟の絵葉書が10枚もらえます。写真の墓所門は焼失しなかった文昭院殿(家宣)霊廟の中門で旧国宝です。ここには2代将軍秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の霊廟があります。

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驚いたことに本来の霊廟は隣の東京プリンスホテルやプリンスパークタワーの敷地にあったそうです。戦災により焼失し長らく荒廃したままの状況の中、所有者である徳川家が西武グループの国土計画に売却をしたそうです。現存していた台徳院殿(秀忠)霊廟惣門や有章院殿(家継)霊廟二天門(2018年1月現在修復中)はその名残で各ホテル前の日比谷通り沿いに建っています。猪瀬直樹ミカドの肖像』にもありますが困窮した徳川家が手放した土地が今の複雑な芝公園の形になっているわけですね。なお本来の霊廟は学術調査の後、桐ヶ谷斎場で荼毘に付され現在地に改葬されているそうです。

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戦災を免れた遺構がまだいくつか残っています。まずは御成門。増上寺の裏門で江戸城から近いため将軍家参拝門となりこの名前になっています。元々は現在の芝公園の外郭にあったため、今の日比谷通り御成門交差点付近に建っていたようです。また御成門前には北方馬場という馬場もあったそうです。

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そして黒門。日比谷通り沿い三門の南にあります。傷みも激しいですが17世紀後半の建築です。僧侶の住居であった方丈の旧門で今の御成門交差点の芝公園4号地、御成門小学校あたりにあったようです。

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台徳院殿の惣門のあるプリンスパークタワー東京の日比谷側通り側の歩行者用エントランスを過ぎると広々とした公園(ただしこちらは都立芝公園ではなく港区立芝公園)があります。日比谷通りを挟んだ緑地帯も芝公園のようです。明治6年増上寺敷地を含めた広域が芝公園として整備された後に、戦後日本国憲法制定により宗教団体への公金の支出が問題となり公園管理が難しくなった結果、今度は増上寺と公園が分離され今の芝公園の形になったようです。

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東照宮に参拝、境内から裏の梅園に抜けるとスタート地点の古墳の麓に出ます。梅園の八重野梅を見ながら徳川家霊廟の数奇な運命に思いを馳せます。徳川家の菩提寺明治維新を経て周囲の土地を奪われながら公園として整備されつつ、霊廟は徳川家の私有となっていたものが戦後の荒廃の中、西武グループに売却され薄皮餅のような芝公園跡が緑地帯の周囲にまだらに残ったということのようです。縄文時代から続くこの丘陵地の物語です。

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四谷の谷を探す

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四谷の語源はよくわかりません。四谷という地名は元和2年(1616年甲州街道四谷大木戸という関所が作られたのが初見のようです。今の四谷四丁目あたりです。そのころからこのあたりは四谷と呼ばれていたようです。普通に考えれば谷が四つあったんでしょうか。ただJR四ツ谷駅から新宿御苑方面への新宿通り(甲州街道)はまっすぐ平坦で、渋谷のようにスリバチ状の地形でもありません。

四谷が栄えてくるのは寛永13年(1636年)四谷見附の外堀を掘削するために付近の寺社や町屋を、今の四谷愛住町四谷舟町須賀町若葉2丁目一帯に移転させてからのようです。その結果寺院を中心に寺町が形成され発展していったようですね。

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国土地理院地図(陰影起伏図)四谷エリアの谷地

高低差のわかる立体地図で見てみると上記の四つの町はすべて谷地形の崖上にありそこに寺院が集中しています。(舟町は愛住町と荒木町の間にあります)すでに四つの谷地が認識されており、そこに町の移転も決まったとしたら?…。四つの谷を探して歩いてみたくなりました。

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JR信濃町駅から歩いてみます。永井信濃守の屋敷があったことに由来する地名だそうです。信濃町駅の海抜は35m。駅を出て左手に坂道を下ると千日谷と呼ばれる谷地にでます。こちらの高度は21m。三色旗で有名な宗教団体の建物が並びます。谷の右手は明治記念館、まっすぐ進んで赤坂御所の門を折れて首都高をくぐると若葉町に入ります。海抜は17mまで下がっています。ここから新宿通りまでクネクネと小道が続きます。

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さて地図を頼りに最初の路地を左折して墓地の崖横の窪地を進むと若葉公園に突き当ります。ここは三方が崖の谷底地形。右手が須賀町の台地のよう。公園の高度は20mですが両脇の崖上は30mあります。四谷エリアで見つけたひとつめの谷です。右手の崖上には寺社が点在しているようです。須賀町に移転した寺院でしょう。

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もとの通りに戻って北上します。右手の高台にまたいくつか寺社が見えてきます。若葉二丁目に移転させられた寺社でしょうか。しばらくいくと須賀公園の交差点。右側が若葉二丁目の台地、左側が須賀町の台地になって地図で確認するとつきあたりが円通寺坂の終点でここも三方が崖です。

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交差点を左手に進むと須賀神社、映画「君の名は。」の聖地です。四谷十八ヶ町の総鎮守だそうです。祭神はスサノオノミコト。四谷の中心と考えていいのかもしれません。須賀神社の海抜が31m。須賀公園の交差点の海抜が20m。右手の天王坂を登りきった新宿通りの海抜が34m。深い谷地形です。二つ目の谷を見つけたような気がします。

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円通寺坂を登りきると新宿通りの津之守坂入口の交差点です。通りを渡った四谷荒木町には松平摂津守の屋敷跡があって坂の地名はそこ(摂津之守)から来ています。明治になって屋敷が退いた後、池や庭園が人々に知られ景勝地として料理屋が軒を連ね芸子が行きかう花街へと発展し、現在も「車力門通り」という雰囲気のいい街並みになっています。夜はちょくちょく来ますが昼間の荒木町は初めてです。

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車力門通りを進んだつきあたりの松平摂津守屋敷跡周辺は趣のある窪地で一番低地に「策の池」(むちのいけ)という小さな池があって、片隅には津の守弁財天が祀られています。テレビ東京が池の水を抜く前に「鉄腕DASH」の企画(新宿DASH)の一環で水を抜いていたあの池です。海抜は22m。完全な谷底地で周囲は四方が崖です。細長い階段をあがって外苑東通りにでます。「荒木町・舟町」の信号があります。この谷も四谷候補です。

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車力門通りと並行して杉大門通りが走っていてその通りの正面、外苑東通りを渡ったあたりが四谷舟町です。全勝寺をはじめいつくかの寺が集まっています。かつては杉林があり舟作り用の丸太の切り出しが行われていたそうです。舟町には谷地形は見当たりません。

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靖国通りまで新坂を下り一本筋違いの暗闇坂を登るあたりが四谷愛住町になります。この一帯もお寺が多く舟町と合わせて四谷北寺町と呼ばれていたようです。愛住町の寺町の高台から外苑西通り方面に降りていく階段があります。窪地です。三方を高い崖に囲まれた愛住公園があります。高度は24m。崖上はどちらも30mあります。四つ目の谷を見つけました。

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南に向かって新宿通りに出て右に曲がると四谷四丁目の交差点、四谷大木戸の碑がたっています。地図を片手に谷を探しながら歩いて来ました。かなり個人的見解ですが四ツ谷を見つけたような気がします。甲州街道(新宿通り)は尾根伝いに真っ直ぐ伸びていましたが左右に入ると谷地形があったんですね。

美濃高須藩松平摂津守の屋敷跡から「君の名は。」まで四谷の谷を探してみました。歴史あるいいエリアです。

 

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