東京街歩き高低差研究所

ブラタモリに憧れて国土地理院の海抜と江戸古地図を頼りにフラフラと。

麻布十番の高低差を愉しむ

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麻布十番周辺は2000年の南北線の開通までは陸の孤島でした。タクシーでしか行けない不便なエリアでもありつつ、それが一部の層には魅力のエリアでもありました。六本木ヒルズ等一部で大規模開発は行われていますが、道路や地形は比較的昔のままを保っているようです。エリアの東側と南側を古川に囲まれ麻布山内田山そしていくつかの急坂で構成されています。

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まずはパティオ(手前の海抜が6m)のある石畳の道を進みます。江戸時代は左手は平山城出羽上山藩藤井松平家)屋敷でした。パティオの先を左に曲がり突き当たりの手前に広い寺社域を持つ麻布山善福寺があります。浄土真宗本願寺派の寺院で、都内では浅草寺深大寺に次ぐ古刹のひとつだそうです。山門ごしの元麻布ヒルズが一種異様でありながら調和も感じます。不思議です。

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善福寺は幕末日本最初のアメリカ公使館となり、下田にいた総領事ハリスが公使に昇格し赴任しています。福沢諭吉の墓も後に五反田池田山からこちらに移転しています。山門の左手裏の墓苑は広くかなり高台まで広がっています。最高点の標高は26.5mあります。愛宕山を越えています。

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善福寺を出て右の路地を進むと仙台坂に出ます。善福寺側と反対側の敷地は松平陸奥仙台伊達家下屋敷です。仙台坂の名はそこから。左手の坂下左手は保科弾正忠(上総飯野藩)屋敷で桜田通りの先がニノ橋です。右に進んで仙台坂上まで登ります。仙台坂上の交差点は6叉路、海抜は28mあります。まずは四の橋方面に南に伸びた道を進みます。仙台坂から見て左側2本目の道です。

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しばらく進んで本村公園の急坂を下って坂下の本村小学校を左折します。更に坂を下ると突き当たりに住宅地に囲まれたこじんまりとした釣り堀があります。衆楽園というヘラブナ専門の釣り堀です。海抜は15.3mです。

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小学校をぐるりと迂回して先ほどの道に戻ります。途中両側が下り階段の窪地がありその真ん中に薬園坂緑地という通路があります。そこを横切って都営住宅の手前を右にはいると本村町貝塚があります。日当たりのいいこの斜面に古代には生活があったわけですね。

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都営住宅をぐるりとまわり先ほどの道へ戻ると道は下り坂で薬園坂です。かつて文京区白山小石川薬園に移る前にこの南面の傾斜地に江戸幕府薬草園があったそうです。

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坂上に戻って直進、今度は鳥居坂方向に向かいます。左手に趣のある大正時代の建築安藤記念教会、右手には麻布の鎮守麻布氷川神社(江戸古地図では氷川明神徳乘寺)があります。道が下り坂になったあたりが一本松です。海抜は24m程度です。

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 大黒坂暗闇坂狸坂、そして降ってきた一本松坂と4つの坂が交差しています。大黒坂を下ると先程のパティオに戻ります。坂名は途中にある大黒天を祀る大法寺に由来しています。

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狸坂をくだって本光寺の脇の小道を入ります。松平石見守(旗本→陸奥棚倉藩)屋敷跡ですが細い路地に古い民家が集まった味のある窪地になっています。海抜は14.5m程です。

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いわゆる魚の骨状の路地で右手側は崖の壁、左手側は1mほど高くなっていて細長い公園が整備されています。公園脇の坂上から見ると六本木ヒルズと窪地の民家のアンバランスさがたまりません。

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坂上山崎主税助屋敷(旗本→備中成羽藩)でがま池という大きな池があったようです。今は大半が埋め立てられ高級マンションの敷地となっています。なんとか駐車場敷地のフェンスの竹林越しに水面を見ることができました。海抜19mです。路地を南下して道に出ると麻布運動場です。高度は30mオーバーで麻布山エリアの最高地点のようです。

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麻布運動場と有栖川宮公園を右手に坂を下ります。この場所は江戸時代は南部美濃守陸奥国盛岡藩下屋敷でこの坂は南部坂と呼ばれる急坂です。一挙に14mほど高度が下がります。坂下は広尾の町です。

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外苑西通りには出ず広尾タワーズの小道を入ると広尾稲荷神社があります。拝殿の天井に龍の墨絵が描かれています。一見の価値ありです。広尾ガーデン、広尾タワーそして通りの向こうの広尾プラザの敷地は堀田摂津守下野佐野藩)屋敷跡です。戻って右手に有栖川宮公園を見ながら旧テレ朝通りを登ります。木下坂です。木下備中守備中足守藩上屋敷が坂の左手にありました。

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愛育病院の信号(海抜28m)から左に下る坂が北条坂。こちらも坂の途中にあった北條遠江河内国狭山藩下屋敷が由来です。しばらく尾根伝いの旧テレ朝通りをいくと六本木ヒルズ手前の左手に櫻田神社があります。江戸古地図では霞山イナリと記され阿部播磨守下屋敷陸奥国白河藩)近くにあります。幕末新撰組沖田総司白河藩士の子でこの下屋敷内で誕生、新撰組ファンにはお宮参りをした神社として知られているようです。社殿の高度は32mです。

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六本木ヒルズです。以前は旧テレビ朝日の六本木センターがありましたが、アークヒルズに移転しそして再びテレビ朝日はこちらに戻っています。江戸時代は毛利右京亮屋敷跡(長門府中藩)でテレ朝前の毛利庭園の名前はそこから。元禄年間は藩主毛利綱元甲斐守で赤穂浪士10名をこの屋敷で預かっています。海抜は池脇のその説明板あたりで20mです。

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ずいぶん歩いてきましたがヒルズのけやき坂裏のさくら坂公園を横切って高台の田豊後守下総小見川藩)屋敷跡のAzabuGardenを通り抜けます。この辺りは六本木ヒルズ側の麻布十番商店街入口右手の都立六本木高校、南山小学校を含めた高台で内田山と言われるエリアです。坂を下ると先ほどきた狸坂の坂下(海抜13m)で左に進むとカーブを描いた寺町に出ます。この辺りは江戸時代は増上寺隠居地祐天上人含め高名な僧たちの隠居地でした。もとは麻布氷川神社の社地だったそうです。隠居地周囲を囲むように寺院が集まっていたようで今もいくつかの寺が残っています。

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道なりに進むと先ほどの暗闇坂の下に出ます。海抜は10mほど。増上寺隠居地は今はオーストリア大使館になっています。右手は鳥居坂下の交差点で商店街を抜けると麻布十番駅です。

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麻布十番は麻布山の仙台坂上、一本松、そして内田山下の窪地にいくつかの坂が集まった独特な地形の町でした。かつては窪地にはがま池や釣り堀に見られるように湧水や沼地も多かったそうです。この街はまだまだ奥が深そうです。

 

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三田綱町界隈を歩く

今日は三田駅からスタートして三田の丘陵地を歩いてみます。まずは慶応仲通り商店街を抜けます。入り口すぐ右手に三河岡崎藩水野監物中屋敷があります。赤穂浪士9名がお預けとなった屋敷のひとつです。海抜は3.8m

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三田通りに出て慶応義塾の東門(海抜7m)から中に入ってみます。かつては幻門と呼ばれて趣のある門でしたが、今は近代的な建物に様変わりしています。階段を登り、更に石畳の登り坂を進みます。慶応義塾の敷地全体が高台にあることがわかります。海抜は18m。生憎重要文化財慶応義塾図書館旧館は修復作業中でした。ここは江戸時代は松平主殿頭中屋敷肥前国島原藩松平家)でしたが、明治4年福沢諭吉が政府から土地を借り受け芝新銭座から慶応義塾を移転させています。

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敷地を縦断して西門を出ると綱坂です。海抜は8m。渡辺姓のルーツと言われる渡辺綱(わたなべのつな)がこの辺りで生まれたという言い伝えがあり坂の名前はそこから。平安時代中期清和源氏3代目源頼光の四天王の一人として活躍したと言われています。坂田金時(金太郎)もそのひとりとか。この辺りの旧町名を三田綱町といいます。

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坂を登る右手がイタリア大使館、左手が綱町三井倶楽部になります。イタリア大使館松平隠岐伊予松山藩久松松平家中屋敷跡、ここにも赤穂浪士がお預けとなっていました。三井倶楽部は島津淡路守日向佐土原藩上屋敷跡です。坂上の海抜は18.2m

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坂を登り切って三田側(都立三田高があります)の下り坂が綱の手引き坂、麻布側が日向坂になります。島津淡路守が日向国だったためと思われます。

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麻布側に進んですぐ右手の坂を下ります。神明坂です。坂を下ったところに元神明宮天祖神社があります。海抜は9m天照皇大御神水天宮が祀られています。渡辺綱産土神として多くの武人に崇拝されていたようです。今は外観はコンクリート打ちっ放しのRC造建築で、木造社殿が中にある覆殿構造。手水舎もセンサー式で驚きます。

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神明坂の右側は今の三田通りまで江戸時代は有馬中務大輔上屋敷で、江戸古地図にも元神明と水天宮の表記があります。神明宮は芝大神宮(飯倉神明)に遷されたことにより元神明となり、水天宮は有馬家の屋敷移転等もあり最終的には日本橋蛎殻町の水天宮になっています。もともと水天宮様は福岡県久留米の久留米水天宮分社ですが、有馬家は筑前福岡久留米藩の藩主でした。

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元神明宮の石垣沿いを進むと古川(渋谷川)にかかる中の橋に出ます。海抜は橋のたもとで3mまで下がっています。左手が黒田甲斐守筑前秋月藩)屋敷です。黒田長政三男長興に始まる福岡藩支藩です。この辺りは再開発が進み昔の面影はないようです。

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名所江戸百景:赤羽橋(有馬屋敷内の火の見櫓)

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右手の有馬家の旧屋敷沿いに進むと赤羽橋です。三田病院や済生会中央病院が並びます。赤羽橋の信号に稲荷社があります。こちらは江戸古地図にもある社です。増上寺側から見た名所江戸図絵に赤羽橋の浮世絵があります。有馬家敷地内にあった火の見櫓(今の赤羽小学校・三田高校あたり)が描かれています。「湯も水も火の見も有馬の名が高し」という言葉遊びもありました。湯は有馬温泉、水は水天宮、そして火はこの火の見櫓を表していました。高度な言葉遊びですね。今度は戻って麻布側に進みます。直進すると一の橋ですがこちらも特に名残はないようなので一本路地を入ってみます。

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讃岐会館があります。江戸古地図を見ると大和国郡山藩柳沢家になっているので讃岐国とは関係のないようですね。昭和26年に香川県が購入しているようです。讃岐会館の前のビルの片隅に銀杏大明神という小さな稲荷社があります。この付近にあった大銀杏が御神体のようです。元神明宮にも合祀されているようです。海抜はこのあたりで5.3m

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讃岐会館から路地を入ると古い町並みが残っています。三田小山町と呼ばれていたエリアで北側と西側を古川に囲まれた窪地です。海抜も4m前後。昭和的な懐かしさを感じるエリアですがこちらも再開発が近づいているようです。路地の奥に小山湯という銭湯の建物が残っていました。すでに営業はしていないようです。

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 小山湯の脇の細い路地を進むと狭い階段があります。二段になっていて高台との段差が8mほどあります。海抜は12.5m。坂を登ると新しい住宅地になっています。

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住宅地を抜けると寺町になり、當光寺の脇から先ほどの日向坂に出ます。當光寺は正式には綱生山當光寺で、まさに綱が生まれた地で、表札の住職の方も渡邊姓、名前には綱の字もついていました。海抜は16.2m。正面のオーストラリア大使館は織田出雲守丹波柏原藩)屋敷跡です。織田信長の次男信雄の五男高長系です。坂を下りるとニノ橋です。(海抜5.2m

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札の辻近くにある三田の総鎮守の御田八幡宮は元は平安時代中期武蔵国御田郷三田窪(久保)に鎮座したとあります。江戸古地図にもこの三田綱町、三田小山町あたりは三田久保丁と記されており、先ほどの讃岐会館内には三田八幡宮古跡もあります。石碑には渡邊綱尊敬の文字が刻まれていました。当初は渡辺綱氏神的な位置付けが強かったのかもしれません。

武家屋敷と寺町、渡辺綱伝説と印象的な三田小山町の一角の町並みなど狭いながらも歴史的にも地形的にも起伏あるいい町でした。

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虎ノ門・新橋界隈をぐるりと

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虎ノ門交差点(海抜6.5m)には虎がいます。江戸城外堀虎ノ門跡の碑です。この碑の対角線側で1923年(大正12年)虎ノ門事件という裕仁皇太子・摂政宮(昭和天皇)の狙撃事件が起きています。勿論未遂に終わりましたが当時の山本権兵衛内閣は総辞職、警視総監、警視庁刑務部長は懲戒免官、犯人難波大助の出身県山口県知事は2カ月減俸、卒業した小学校の校長と担任は辞職、父親の衆議院議員難波作之進は自宅を閉門し蟄居、絶食のうえ餓死したそうです。時代ですね。。

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実際の虎ノ門はもう少し皇居より、おそらく地図上の黄緑色に塗られた公開空地あたりにあったようです。さて虎ノ門の交差点から外堀通りの一本皇居よりの一方通行の道を新橋方向に進みます。おそらくこのあたりが外堀跡で汐留川と呼ばれていた流れの河岸です。現代の地図で見ても途中で折り曲がった怪しく細長い街区(オレンジ色部分)があります。江戸時代は河岸通りと呼ばれこれより先に新シ橋幸橋御門土橋難波橋芝口御門(新橋)と橋が続いていたそうです。まずはその跡を探してみます。

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新橋、虎ノ門エリアは再開発が加速しています。新シ橋と思われるエリアも工事中(地図の汐留川が折れ曲がって段差ができているあたり)通行止めのため堀の皇居側を進みます。工事エリアをすぎてもとの道へ戻ったところ(写真上は新し橋方向を振り返っています)に石垣が積まれています。付近の工事の際に地下4mから出土した江戸城外郭の石垣だそうです。海抜は4.2m

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そのまま(日比谷通りを迂回しつつ)直進すると幸橋御門。櫓見附で石垣があったはずですが跡には何も残っていません。不自然なスペースを感じる第一ホテル前のこのあたりでしょうか。海抜は3.8m。JRの高架下に名前の名残を発見しました。幸橋の内側のエリアを今は内幸町と呼んでいます。

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このあたりから汐留川の跡には首都高が上を走るようになります。堀沿いの道は御門通りという名前がついています。御門通りは土橋、難波橋をこえると銀座中央通りとの交差点、ここが新橋です。新橋の街の名前の由来はここからです。ここにはかつて芝口御門という門がありました。傍らに碑もたっています。

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また芝口御門の先には三十間掘という堀があったそうです。今の昭和通りと中央通りの間です。晴海通りの三原橋はこの流れの先に架かっていたわけですね。このあたりでその堀は汐留川と合流して海に流れていたようです。

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せっかくなので汐留川の河口まで足をのばします。浜離宮の表門からの流れがありますが今回は首都高沿いに南下します。堀の工事個所があってテレビ東京の「池の水全部抜く」なみに水抜きをして石垣の修復をしていました。浜離宮庭園前の信号をわたって新橋方面に戻ります。

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新橋五丁目の交差点を直進してしばらくいくと左手に塩釜公園があります。鹽竃神社の境内です。なぜに塩釜?と思って確認するとこちらはやはり江戸時代は松平陸奥中屋敷(仙台伊達家)。海抜は3.2m。新橋は飲食店の多い繁華街エリアですが江戸時代は武家屋敷街だったようです。

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中川修理大夫中屋敷豊後国岡藩)や分部若狭守上屋敷近江大溝藩)、溝口主膳正上屋敷越後新発田藩)、酒井志摩守上屋敷上野国伊勢崎藩)、毛利出雲守上屋敷長門国長府藩)、松平内蔵頭中屋敷岡山藩池田家)などの大名屋敷エリアの中に神社があります。烏森神社です。夜しか来たことなかったですし、横丁から入ってましたが正面に参道もあるんですね。海抜は3m程度です。

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烏森神社をでて日比谷通りをこえて虎ノ門ヒルズ方面に進みます。南桜公園(海抜4.8m)という公園があります。こちらは田豊前守上屋敷跡(近江宮川藩)です。その先は毛利安房上屋敷豊後国佐伯家)、土方備中守上屋敷伊勢国菰野)と続きます。

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環状2号線を渡ると田村右京大夫上屋敷。初代陸奥一関藩の藩主田村建顕の時、忠臣蔵の播磨赤穂藩浅野長矩がこの藩邸の庭で切腹しています。日比谷通りを越えた先に浅野内匠頭終焉之地の石碑があります。海抜は3.4mf:id:tohrusampo:20180209184355j:image

虎ノ門ヒルズに向かいます。ヒルズの左脇を抜けて最初の路地を左に入ると愛宕神社裏の寺町になります。猿寺栄閑院というやたらと猿が目立つお寺に解体新書蘭学者杉田玄白の墓がありました。海抜6.3m

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もう少し歩きます。神谷町方面にでてつい最近までテレビ東京のあった城山を登ります。右手は松平右近将監屋敷(石見国浜田藩越前松平家)ですがかつてこの辺りは江戸城築城の際の土取り場だったそうです。つきあたりを右に曲がると土岐美濃守上屋敷上野国沼田藩)、現在は白壁の菊地寛実記念智美術館になっています。

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改装中のホテルオークラの脇を通り急坂の江戸見坂をくだり汐見坂を登ります。海抜で言うと25mから7.5mまでくだり14.4mまで再び登ります。ホテルオークラ松平大和守武蔵国川越藩)、汐見坂右手の共同通信虎ノ門病院の敷地は松平肥前中屋敷佐賀藩鍋島家)でした。突き当たりに重々しい警備をしているアメリカ大使館があります。山口筑前上屋敷常陸国牛久藩)です。

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ここから日本財団とJTビルの間をまっすぐに続く道があります。海抜は9mほど。江戸古地図によると馬場と表記されています。その先は溜池です。馬場をくだり右折して道なりに以前歩いた外堀通り沿いをいくと虎ノ門駅に戻ります。

ぐるりと回ってきました。汐留川は埋め立てられ、鉄道や日比谷通り、マッカーサー通り(環状2号線)で分断され街の様相は変わりましたが、新橋界隈は意外に屋敷町だったんですね。

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芝の旧海岸線を歩く

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今日は田町駅からスタート。高低差のない旧海岸線を歩きます。国道15号に日比谷通りが合流する三菱自動車の本社前に江戸開場西郷南洲勝海舟会見の地の石碑があります。海抜3.5m。ここは江戸時代の薩摩島津家蔵屋敷です。すぐ裏は芝浦の海浜で舟で上方や領内から物資が送られていたのでしょうか。

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古地図を見ると薩州クラヤシキの表記の近くに鹿島明神の表記があります。路地を入ってみると御穂鹿島神社がありました。確かにこの神社は山手線から見た記憶があります。当時はこのあたりは砂浜だったのでしょうか。今は本芝公園として整備されています。海抜は1.7mとかなり低いです。

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公園手前の線路際に雑魚場跡の碑があります。線路の下を通路が伸びています。明治の初め新橋横浜間の鉄道は海岸線に作られましたが当時からこの線路下を舟で通って芝エビなどを水揚げをしていたようです。かつては海浜だったわけですね。海抜1.2m

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1868年(慶応4年)前述のように薩摩蔵屋敷において江戸無血開城が決まりますが、本来であれば上屋敷で行われるべき対談がなぜ蔵屋敷で行われたのかというと、近くの江戸薩摩藩上屋敷は対談の前年幕府方の庄内藩兵に焼討ちされていたことによります。討幕の密勅大政奉還により延期となったことに端を発し、江戸では薩摩藩邸を中心に討幕運動を押さえることができずに、幕府方と騒乱となったわけですね。そのため上屋敷ではなく蔵屋敷での対談になったわけです。

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上屋敷跡も近くなので寄り道します。日比谷通り沿いのちょうどNEC本社とセレスティンホテルのあるあたりが薩摩藩島津家上屋敷でした。広大な敷地です。敷地跡には先程のNEC本社側に石碑とセレスティンホテル裏には芝さつまの道という説明施設が整備されています。海抜は4.2m

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案内板をみると日比谷通りから国道1号を挟んで慶応義塾の向こうの古川までのエリアは大名屋敷が集まっています。ちょうど慶応義塾大学の東門のあたりは三田四国町と呼ばれていたようです。本芝公園にあった弘化3年(1846年)の絵地図も参照するとこのあたりには松平阿波守中屋敷徳島藩蜂須賀家)松平土佐守中屋敷土佐藩山内家、屋敷はその後薩摩島津家に)、松平隠岐中屋敷伊予松山藩久松松平家)の四国の大名屋敷の名前が見えます。讃岐国の名前だけ見つかりません。三田同朋町の裏手(慶応仲通り商店街あたり?)に松平讃岐守屋敷があったのでは?とか讃岐国丸亀藩京極家の屋敷が虎ノ門に移る前が芝・三田だったとかいろいろ探してみましたが結論はでませんでした。

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芝の海岸線に戻ります。写真の芝4丁目の交差点(海抜2.8m)から先も海岸線でした。ちょうど薩摩藩邸からの水路があったようです。JRの敷地とトンネルをくぐった向こう側の敷地の一部が当時の海岸線。河口の両側に松平肥後守陣屋真田信濃守陣屋がありました。真田家は第六台場の防備のために間部下総守屋敷を払い下げられていたようです。両陣屋とも異国船への配備だったわけですね。いまではそのすぐ先に輸入車専門ディーラーのヤナセがあるのも意味深ですね。

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名所江戸百景:金杉橋

JRの敷地の内側の旧海岸線を平行に進みます。外側には元東芝本社がありますが一部は松平肥後守屋敷(会津松平家でした。金杉橋を渡ります。このあたりが古川(渋谷川)の河口でした。今も屋形船や釣り船屋が並んでいます。橋を渡った海側は芝新網町とよばれ明治時代には貧民屈と呼ばれるエリアでした。乞胸(ごうむね)や願人(がんにん)と呼ばれる大道芸を生業とした被差別民衆が住んでいたようですが今はまったくその面影はないです。四谷の谷を探す際に歩いた四谷鮫河橋(若葉町)同様、土地の高騰にともない貧民屈もなくなっていったようです。

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浜松町駅の脇を通り抜けます。駅の向こう側には旧芝離宮恩賜庭園があります。海抜は1mを切っています。老中大久保忠朝大久保加賀守・相模小田原藩)が家綱から拝領した庭園で、幕末は紀伊徳川家拝領地でしたが明治になって有栖川宮熾仁親王となっています。近くの大久保加賀守の屋敷跡は今は世界貿易センタービルになっています。文化放送の敷地は関但馬守(備中新見藩)、その奥は越中(播磨赤穂藩)の屋敷跡です。そのまま直進します。

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文化放送裏の路地を進むと区立エコプラザの脇に慶応義塾発祥の地の石碑があります。海抜は1.3m程度。実際はもう少し北側の今はマンション建築中のあたりで江戸時代は芝新銭座と呼ばれ銭貨鋳造所があったそうです。寛永通宝もここで作られていました。慶應義塾が三田に移転した後は攻玉社が引き継いだらしく、福沢諭吉攻玉社創始の近藤真琴の両創立者の記念碑になっています。

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線路を越えた海側の現在のイタリア公園のあたりには台場の砲台や韮川反射炉を手掛けた江川太郎左衛門江川英龍)の鉄砲調練場(所謂西洋流砲術)があって佐久間象山橋本左内桂小五郎などが学んでいました。また現在の汐留イタリア街区には松平肥後守会津松平家)の屋敷がありました。(しかしなぜにイタリアなんでしょう?)

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国道15号(東海道)に戻ってまた北上します。マッカーサー通り(環状2号線)との交差点に日比谷神社があります。海抜は3mほど。元々は日比谷公園の中にあったそうです。JRの高架をくぐって汐留側に出ます。日本テレビのあるあたりが松平陸奥仙台伊達家上屋敷跡です。日本テレビ北玄関に案内板があります。このあたりが表門だったようです。

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芝の海岸線散歩も間も無く終点、浜離宮を目指します。甲府藩主徳川綱重が拝領していましたが綱重の子綱豊が6代将軍家宣となったため甲府徳川家は絶家となります。以降は将軍家の浜御殿となり幕末には幕府海軍伝習屯所となっていました。江戸無血開城後、榎本武揚率いる幕府海軍はここから蝦夷地に渡り函館五稜郭で徹底抗戦することになります。石垣の門のところの海抜が3.5mです。

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珍しく高低差の少ない道のりを進んできました。慌ただしい異国船への対応や戊辰戦争など、幕末の動乱の跡が色濃く残る海岸線でした。

 

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御殿山の台場の謎を探る

1853年7月8日ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航します。12代将軍徳川家慶の病を理由に回答に一年の猶予をもらった江戸幕府は品川沖に11の砲撃用の台場を作ることを計画、早速実行に移します。フジテレビのあるお台場には台場公園として第3台場がそして台場側から見てレインボーブリッジ左手側に第6台場が現存しています。実は品川側にもお台場の痕跡があるらしく今回はそれを探しに行きます。

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品川駅高輪口を出て左手に向かい八ツ山橋を渡ると旧東海道の入口になります。車一台が通れるくらいの石畳の歩道の趣のある商店街が続いています。海抜は旧東海道入口で10mありますが東海道を進むと6mまでさがります。

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東禅寺事件もあり、開国後御殿山にイギリス公使館を作ろうとした幕府に対して高杉晋作らが焼き討ちを相談したという相模屋(土蔵相模)の先を左手に曲がります。この辺りは品川宿の入口付近で歩行新宿(かちしんじゅく)と呼ばれていました。

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通りを渡ると乗合船や屋形船が停泊している運河に出ます。実はこちらは本来の目黒川の河口です。橋を渡った向こうは目黒川が運んだ土砂が堆積して猟師町になっていたそうです。海抜は2mまで下がってきました。

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江戸古地図を見ると目黒川が寺町を抜けると北西方向に湾曲して東京湾に流れていたのがわかります。先ほどの運河がこの流れ跡です。地図には河口の弁財天の隣に松平相模守御薹場の記載もありますね。品川の御台場はここにありました。

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この台場は御殿山下台場と呼ばれ実際はホームベース型の五角形で三角形部分の頂点が海の方を向いていました。現代の地図で見ると台場の五角形がしっかり残っていますね。こういう地図上に残った跡はワクワクします。古地図の弁財天は地図上の利田神社になります。

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敷地内の品川区立台場小学校にはちゃんと御殿山下台場砲台跡があります。工事の際に出土した石垣が積まれています。灯台は明治3年に設置された品川灯台を模したものだそうです。海抜は2.3mと台場埋め立て部分はほぼ平坦です。

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旧目黒川の流れを想像しながら現在の目黒川方面に漁師町の裏道を歩きます。山手通りを渡ってしばらく行くと寄木神社という小さな神社があります。小さな社殿ですが本殿扉に鏝絵(こてえ)と呼ばれる見事な漆喰絵画があります。天照大神、天鈿女命、猿田彦命が描かれています。食い入るように見ていた参拝者がいなければ通り過ぎるところでした。こちらは一見の価値ありです。海抜は2.9m

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目黒川に出ます。満潮時なのか潮の流れでゆったりと逆流しています。海が近いです。洲崎橋を渡って海を目指します。昭和橋の信号を渡ると整備された東品川海上公園にでます。目黒川河口です。かつてはこのあたりは海面だったはずです。2つ目の台場跡があるのが橋の向こうに見える天王洲アイルです。

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羽田空港へのモノレール駅がある天王洲アイルの一角にシーフォートスクエア(海の砦)と呼ばれる街区があります。ウッドデッキで覆われた回廊の土台部分に第4台場の形跡が残っています。まさに海の砦でした。海抜は上の石垣部分で4.5mありますがウッドデッキは下り坂で先端部分は2mまで下がります。水深もかなり浅いようです。

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途中の天王洲公園に江戸時代寛政年間天王洲の海に鯨が現れ大騒ぎになり将軍まで見にきたという案内がありました。その時の鯨塚が先ほどの御殿山下台場近くの利田神社脇にあります。 何気なく写真におさめてましたがそういう話だったんですね。ちなみに利田神社の海抜は1.8mです。

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さて天王洲の天王は北品川の品川神社と南品川の荏原神社がそれぞれ北の天王社南の天王社と呼ばれていたことによります。目黒川の流域が変わって荏原神社は今は目黒川沿いの北品川側にあります。荏原神社は海抜3.5mですが、高台にある品川神社16.7mあります。

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突貫工事で作った御殿場下台場は近くの桜の名所御殿山を切り崩した土砂で作ったそうです。名所江戸百景にも崩れた崖の御殿山の浮世絵があります。写真の御殿山トラストタワーの庭園の窪みもその名残りです。その他の台場も泉岳寺や八ツ山あたりの土砂を利用しています。その間東海道は通行が制限され高台の二本榎通りを通らされたようです。品川宿の打撃も大きかったことでしょう。御殿山に峰続きだった線路のこちら側、桜の名所の権現山公園の標高は18mありますが御殿山の御殿山庭園部分は7mまで窪んでいます。

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 最後に東海寺に向かいます。徳川家光により沢庵宗彭を招聘し創建された臨済宗の寺院です。幕府の手厚い保護を受け5万坪近くの寺域を有していましたが、台場の土砂の切り崩しや明治政府による接収、線路の切り通しなどで衰退しました。丹波篠山藩青山家菩提寺のようです。さすがに青山墓地ではないんですね。目黒川沿いに追いやられ海抜は4mほどです。

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少し離れた山手通りと東海道線を越えた先に東海寺大山墓地があります。山手通りの墓地入口付近は海抜1.2mとかなり低くなってますが、山上の沢庵宗彭の御墓の海抜は9mほど。線路の向こうの権現山公園含め、品川神社のあたりまで広い敷地を有していたそうです。品川神社自体が東海寺の鬼門を守る鎮守だったようです。

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先程の品川神社の本殿裏には板垣退助の墓がありました。以前参拝したときに裏手に回って見つけた時に、何故に神社にお墓が?と不思議に思っていましたが、もともとこの墓のある場所は東海寺の塔頭高徳院だったようです。東海寺の権勢の証左ですね。

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さて沢庵宗彭のお墓の近くには鳥居があって国学者賀茂真淵のお墓がひっそりとありました。古事記伝本居宣長の師匠でもあり、国学四大人と呼ばれたひとりです。

国学はその後平田篤胤による復古神道の提唱、尊王攘夷思想の目覚め、そしてペリーによる開国と、幕末の大きなうねりがやってくるわけですね。御殿山下台場を探る旅にふさわしいゴール地点です。

 

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品川の高輪台地を巡る

泉岳寺駅から品川方面に第一京浜を進みます。駅を出るとすぐのビルの2階に社殿が見えます。車町稲荷神社です。まずは階段を登って参拝します。海抜は4.7m

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江戸古地図を見ると品川駅まで右側は寺社が続いてたようです。高輪大仏があったという如来は明治に入って西大井の方に移転したそうです。高輪神社も庚申堂太子堂来成寺と記されています。以前来た時に祭神に聖徳太子が入っているなとは気づいてましたがかつてはお寺だったんですね。廃仏毀釈の影響でしょうか。

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高輪二丁目を過ぎると突き当たりに寺社のあるゆったりとした道が右手に鋭角に出てきます。臨済宗妙心派別格本山東禅寺の参道です。緩やかに参道は登りです。山門のあたりは海抜9m

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東禅寺は池田山の備前岡山藩池田氏や島津山の仙台藩伊達家の菩提寺だったようです。また幕末には日本初のイギリス公使館も置かれていたそうです。攘夷派による二度の公使襲撃事件も起きています。二度目の襲撃事件の賠償は翌年の生麦事件の賠償問題の解決まで続きます。現在では敷地は随分減ったようですが境内に入ると三重塔もあります。立派な寺院です。海抜は11.6mあります。

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東禅寺手前、左手の高輪公園脇の小道を登ってみます。公園内には湧水もあるようです。昔は東禅寺の敷地内だったかもしれません。そのまま長い階段の坂を登っていきます。

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高台に出ます。階段下は13mほどでしたが階段上は20mあります。正面に竹田宮邸洋館が現れます。竹田宮東武皇帝北白川宮能久の第一王子(庶長子)恒久が創設した宮家です。幕末は薩摩藩島津家下屋敷でした。現在はグランドプリンスホテル高輪の貴賓館として使用されています。

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右手に進んで工事中の旧衆議院議員宿舎を過ぎて道なりにホテルの周囲を歩きます。土塀のある信濃飯山藩本多家下屋敷には味の素研修センターがあります。日露戦争の英雄大山巌元帥の邸宅もここだったそうです。海抜は29mまであがっています。

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薩摩邸を左手に二本榎通りを進みます。この辺りの薩摩邸跡は明治に入って北白川宮邸となり現在はグランドプリンス新高輪となっています。T字路右手は奥平豊前国中津藩下屋敷で、その後森村財閥創始者森村市左衛門の私邸となったあと森村学園となっていましたが、現在は仏所護念会高輪教会になっています。

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この先で道は直角に曲がり品川駅に突き当たる柘榴坂の下り坂になります。坂上25mありますが坂下は5mありません。右側の品川プリンスホテルの土地は筑後久留米藩有馬家屋敷跡、明治に入って毛利公爵邸。左手の薩摩邸のこの辺りは朝香宮東久邇宮になったのち京浜急行所有となっています。今はパシフィックホテル東京が名前を変えて品川グースという複合施設になっています。この辺りの土地の変遷は大名屋敷から宮家や華族邸へ、そして現代資本へとの歴史の流れを感じます。

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柘榴坂途中の信号を曲がって高台を尾根沿いに南下します。松平大和守(武蔵国川越藩)屋敷跡※と加藤越中守(近江国水口藩)の屋敷跡が続きます。かつては高台から海を見下ろせたはずですが、今では品川駅港南口のビル群が壁のように立ちはだかります。写真の高台で26.5m※松平若狭守とされた古地図もあるようです。

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御殿山交番に出て信号を渡って少し下った左手の階段を登ります。この一帯も高台で区画整理もされ御殿山と呼ばれる高級住宅街になっています。概ね海抜20mほどの平坦な住宅地です。江戸時代は松平出羽守(出雲松江藩松平家越前松平家)と松平相模守(因幡鳥取藩池田家)の屋敷跡でした。

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原美術館の前を過ぎ突き当たりが御殿山通りです。真っ直ぐ急坂を下ると北品川です。線路を渡らず御殿山トラストタワーの敷地を真っ直ぐ進むと八ツ山橋に戻ってきます。海抜18.5mほどからJRの線路の切りとおしの手間で12mほどまで下ります。

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写真の伊藤博文別邸はその後三菱財閥岩崎家別邸となり現在は開東閣とし鬱蒼とした森に囲まれた三菱グループの倶楽部となっています。中はどうなっているのでしょうか。直進すると品川駅です。海抜は5mまでさがります。

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ちなみに品川駅は品川区にありません。厳密に言えば今日歩いたエリアは御殿山の一部を除くと品川というよりは高輪エリアです。品川駅の南に北品川があってそこから旧東海道沿いに品川宿が始まります。その辺はまた次回に。

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青山家の屋敷街を歩く。

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渋谷駅から宮益坂を上って青山方面に向かいます。坂下が海抜19m坂上33mあります。そこそこの登り坂です。宮益坂の中腹、海抜25mほどのところの左側に御嶽神社があります。祭神は日本武尊。50段ほど階段をあがるとビルに囲まれた社殿があります。なぜか狛犬は普通の犬。小規模な神社ですがちゃんと三の鳥居まであります。裏の通りは美竹通りといいます。「御嶽」から来ているのでしょうか。

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国道246号線青山通りに入ります。江戸時代は大山道と呼ばれ相模国大山に鎮座する大山阿夫利神社への参詣道でした。大山阿夫利神社は雨乞いの神様で江戸時代の農民たちの崇敬の対象となっていたようです。まもなく道の左側に青山こどもの城と国際連合大学が見えてきます。

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こちらは江戸時代の稲葉長門守(山城国淀藩)屋敷跡。淀藩は江戸幕府にとっては西国の要となる畿内藩で、正成系稲葉氏の初代稲葉正成の妻は家光の乳母となった春日局です。なにか形跡はないかと裏手に回ってみるとTBSハウジングの広大な住宅展示場になっています。敷地内は高低差もあって低地部分は池になっていました。琵琶池というらしいですがおそらく大名屋敷内の湧水池だったのでしょう。アオサギが魚を狙っていました。海抜は26m

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道の反対側は青山学院大学、江戸時代の松平左京大夫屋敷跡。伊予西条松平家という紀伊徳川家の支藩です。親藩でありながら戊辰戦争には官軍として参戦しています。3万坪の敷地でしたが1882年(明治15年)に総額6000円で購入されたそうです。一坪20銭ですね。※青山学院HPより

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骨董通りのT字路を過ぎると表参道の交差点。その少し先を左に入ると善光寺別院があります。信州善光寺百済聖明王の時代からの縁起がある無宗派の日本最古の仏教寺院ともいわれ、こちらの別院も門前町も形成されていたようです。境内には蘭学者高野長英の碑がありました。蛮社の獄から脱獄後この地で亡くなったそうです。

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骨董通りから外苑前の先くらいまで百人組と呼ばれた江戸を警備する鉄砲隊の屋敷が大山道の両側にあったようです。現在も新大久保駅周辺に百人町という地名がありますが青山や市ヶ谷にも百人町があったようです。

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表参道の信号で通りを渡ってプラダカルティエなどのラグジュアリーブランドが立ち並ぶみゆき通りを進みます。海抜は33m宮益坂上から青山通りはほぼ平坦です。つきあたりが根津美術館。江戸時代は秋月佐渡守屋敷(日向国高鍋藩)で裏手には長谷寺とその門前町が広がっていたようです。海抜は31m。緩やかに下っていたようです。

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右に進んで敷地をぐるりと回ると高樹町の交差点に出ます。富士フイルムの社屋の横を入ると正面が長谷寺です。曹洞宗大本山永平寺別院。門をくぐった右手の観音堂には麻布大観音と呼ばれる高さ10mの十一面観世音菩薩立像があります。海抜はこちらも31mと高台のままです。

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長谷寺の敷地にそって道なりに路地を進むと根津美術館から左手に降りてくる坂道(写真に見えるのは根津美術館の壁)に合流します。写真の分岐点は少し根津美術館側に戻ったところです。海抜は19.3m。交互に一方通行の細道で西麻布の交差点の方に曲がりくねりながら下ってまた合流します。川の流れを感じ暗渠の予感がします。今回はどちらにもいかず写真の左手の路地を進みます。

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まもなく青山の庚申塔が出てきます。海抜は19.7m。石碑にも書いてありますが左に行くと先程の善光寺別院ですが右手に向かいます。青山霊園立山墓地沿いを進む形になります。この辺りも若干暗渠っぼさがあります。

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しばらく行くと青山の窪地を実感する場所に出ます。赤坂通りの乃木坂トンネルをくぐった青山墓地の先が高架になっていますが、その真下です。高度差は10m程ありそうです。深い谷地です。(正確にいうと公園が19.5m、高台の崖上が30mです)

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舌下状の台地の左右に谷地が広がってます。右側は外苑西通りに沿って道なりに進みます。今回は左側の谷地を進みます。登り坂です。海抜20m地点から27m地点まで登ります。左手の高台は長者ヶ丸と呼ばれたエリアです。

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突き当たりはT字路。振り返ると急坂で右側に石造りのガードのようなものがあります。これは何でしょうか。ここを右折して外苑西通りを超えて突き当たりのY字を左手に坂を登ると梅窓院の裏手に出ます。海抜は33mほど。梅窓院はこのあたりを所有していた青山大膳亮美濃国郡上藩)の菩提寺です。山門の正面が外苑前の交差点です。

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この辺り一帯が青山と呼ばれているのは青山家の屋敷があったためですが、青山通りの南側が前述の青山大膳亮の広大な屋敷、北側の現在港区立青山中学校のあたりが青山下野守丹波国篠山藩)、そして高橋是清記念公園やカナダ大使館あたりが青山備前守(旗本青山幸覃?)と広範囲に渡ってます。一応宗家は青山下野守のようです。

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青山家の分家である美濃国郡上藩の一番有名な屋敷跡を目指します。青山霊園です。青山通りを赤坂消防署入り口の信号から右折した突き当たりです。明治維新廃仏毀釈もあり仏教寺院の葬式宗教が薄れ墓地の需要が急騰、青山霊園雑司が谷霊園が作られました。

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直進すると青山霊園中央の交差点。右へ行くと先ほどの谷地から見えた高架の上、直進すると西麻布方面かおたんラーメンあたり、左に行くと乃木坂トンネルです。海抜は32m。左に行きます。

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乃木坂トンネルは青山側からはハーフパイプ外苑東通りを渡り地下に潜ります。歩行者はトンネル内には入れないので右脇の歩道を歩きます。

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外苑東通りを過ぎると高台上に国立新美術館が見えます。こちらは江戸古地図では伊達遠江屋敷、伊予国宇和島藩伊達家です。初代伊達秀宗は伊達正宗の長子でありながら仙台伊達藩を継げず数奇な運命を辿った藩主でした。

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トンネルを越えると乃木坂駅手前の袋小路に出ます。外苑東通りを渡ると赤坂です。この辺りまでが青山家の屋敷だったようですね。海抜は31mあります。

青山学院から青山霊園まで青山の名が残るエリアを歩いてきました。武家屋敷跡あり門前町あり高低差ありの楽しいエリアでした。

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